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【特集】「日本サッカーの発展に貢献したブラジル人」ジョージ・トレド

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写真:トレドサッカークラブ集合写真)

ジョージ・トレドは、ラモス瑠偉、ジョージ与那城らと共に読売サッカークラブ(現東京ヴェルディ1969)の黄金期を支え、日本サッカーの発展に貢献をしたブラジル人だ。

トレドは1958年にサンパウロの貧しい家庭で9人兄弟の5人目として生まれ、幼い頃から家族を食べさせるためにプロ選手を志す。
1977年にアソシアソン・ポルトゲーザFCに入団後、ブラジルでプロ選手として活躍し、ラモス瑠偉に声を掛けられ1978年に読売サッカークラブとプロ契約を果たす。以後12年間、読売クラブで日本リーグ優勝5回、天皇杯優勝3回、JSLカップ優勝3回とタイトルを獲得し、天皇杯ではMVP選出されるなど輝かしい成績を残して、現役を引退。

引退後も日本に留まり、堀越高等学校サッカー部監督などを経て、2009年にトレドサッカークラブを開校。
現役時代から交流があるラモス瑠偉の他、都並敏史、弟であるエジソン、アマラオ(元FC東京)、マリーニョ(元日産、現:横浜F・マリノス)らの協力を得て、現在はあきる野市を中心に、東京都で子供達にブラジル式サッカーを指導し、U-15、U-17日本代表候補の選手を同クラブにて育成している。

「私が日本に来日した当時は、アマチュアで仕事をしながらプレーしている選手が大半で、チームにはフィジカルトレーナーさえいない時代でした。当時”ジャパンマネー”に目が眩み、ブラジルからたくさんの選手が来日しました。しかし、大多数のブラジル人は日本サッカーのレベル舐めていたので、ほとんどの選手が結果を残すことができずに帰国していきました」

帰国していくブラジル人達を尻目に、トレドは日本文化や言葉を学び、積極的にコミュニケーションを図った。
そんなトレドの姿勢は、当時のチームメイト達から信頼を得ることに成功し、Jリーグでプレーした後輩ブラジル人達からも兄貴分のように慕われた。

「来日当初はご飯に味がないことに驚きました。だからマヨネーズやレモンをごはんにふりかけて食べていましたが、今では大好物です。現役時代、よく松木安太郎に練習後に焼き鳥屋に連れていかれ、朝まで飲み明かしたせいか、焼き鳥と日本酒も大好きです。(笑) 私はブラジル人ですが、もう30年以上日本に住んでいるので、日本人が持つ勤勉さの大切さを学べました。この勤勉さ、という点に関してはブラジル人は真似できないと思いますし、日本サッカーが目指すべき方向性だと感じています」
トレドサッカークラブの生徒である小川裕次郎君(13歳)は、トレドの背中を見て、ブラジルサッカーに憧れを抱き、サンパウロに渡り同世代のブラジル人達としのぎを削った。
「トレド先生はとにかく優しくて、サッカーがうまいです。それにボールタッチのリズムが独特です。ブラジルで、自分の実力をしっかり見極めて自分での足でプロ選手を目指すための現実を受け止めたいです」

トレドが南米と日本の架け橋として長年かけて蒔いてきた種は、日本とブラジルの地で確実に開花しつつある。

 

トレドサッカークラブ公式HP
http://www.toledo-sc.com/

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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「ブラジルサッカーを体現する男」今野英一

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(写真:サンパウロFCU15監督と今野氏)

今野英一はまだJリーグがなかった1990年にブラジルに渡り、10を超えるチーム以上プレーした後、引退後は神奈川県でブラジル式育成クラブ「COJB」の代表を務めている。自身の経験を還元したCOJBでは、クラブの代表として15人以上の日本人選手をブラジルの地にプロ選手として送り出すことに成功し、ブラジルサッカー界との繋がりも深い。
COJBのOBの中には、Jリーグの下部組織で育つがトップ昇格が叶わなかった選手も多く、今野の指導を受けて「いままでの指導にないもの」と称賛し、今野のもとでプロとしてデビューを果たす選手も存在する。

今野の選手時代の実績に目を向けると、ブラジル全国選手権1部でプレーしたたった2人の日本人として記録されており、元セレソンのフランサや1998年のフランスワールドカップ準優勝メンバーであるゼ・カルロスらとチームメイトとしてしのぎを削るなど、輝かしい経歴を持つ。
「日本人の蹴るボールは四角い」そんなブラジル流の揶揄が頻繁に聞かれた1990年から、常に挑戦者としてブラジルサッカーと向き合ってきた今野が描くブラジルに像に迫った。

 

‐1990年代のブラジルはどんな国に映りましたか?またどんなサッカースタイルでしたか?
今野英一(以下:今野)とにかく日本人がグラウンドに立つと、ケラケラ笑われるような時代でした。ジャポネーゼ(ジャポネース)にボールが蹴れるわけがない、と。
施設や環境面でも、汚い、狭い、給料は安いと、決して良い環境と言えるものではありませんでしたね。ただサッカーだけに打ち込める環境は、ブラジルならではでした。現在でもブラジルに行った際、施設や環境面に見るようにしていますが、1部のビッククラブは年々良くなっていますが、そうでないクラブは当時とあまり変わりませんね。
スタイルに関しては、とにかくテクニカルな選手が多いというイメージでしたが、実際プレーをしてみると決してテクニカルな選手ばかりではない。しっかりとデイフェンスをする選手もおり、プレーの役割分担がはっきりとしていました。当時は4-3-3のウイングシステムが主流で、特にドリブルでサイド切り裂くプレーが観客には好まれましたね。

 

‐当時プロリーグがない国の選手が、サッカー大国でプロ選手としてのキャリアを築いていくというのは非常に困難なことだと思いますが。
今野:ブラジル人にお金を払って環境を得るをすることは簡単ですが、ブラジル人からお金をもらって環境を得ることはその何百倍も難しいです。
実際私もプロ選手になったばかりの当初は、最低給料の3倍程度の給料(当時のレートで月額35,000円程度)に勝利給を加えても微々たるものでした。
だから、日系人の人達に頼み込んで泊まりこみで練習に通わせてもらったり、水道もまともに出ないようなファベイラの一角(ブラジルのスラム街)に住んだこともあります。
キャリアを積んで、最終的には勝利給も含め月額100万程度の収入を得ることができましたが、外国人選手としては極めて稀なケースだと思います。
ブラジルサッカーは、最初の間口が驚くほど狭く競争も困難ですが、一度選手として認めれれるとチーム選択も含め、より良いキャリアを描くチャンスが広がっていました。

 

‐ブラジル式育成を掲げる「COJB」の特徴を教えて下さい。
今野:真剣にブラジルでプロを目指す人に、そのための道を提示できることです。私の選手時代の所属クラブとの関係性はもちろん、OBも15名以上がブラジルでプロ契約を果たしています。
長年培ったノウハウと、現地スタッフからの情報網を活かして『プロ選手になる事、少しでもプロに近づく事』という個々の目標に向って、実践的なトレーニングメニューに組みます。
もちろん現実は厳しく、夢叶わずプロになれない選手が大半を占めますが、技術も含め懸命にサッカーに取り組むことで、指導の中で人間性の向上にも尽力しています。

 

‐育成世代にを指導する際に気をつけていることはありますか?
今野:サッカーしかできない人間になって欲しくない、と常々思っています。COJBでは、中学校を卒業してブラジルに挑戦する子供達も存在します。若い世代のサッカーの技術力には昔より格段に進歩していますが、人間力に関しては疑問符が付くというのが私の考え方です。
当然選手を引退してからの人生のほうが長いので、サッカーを通じて、またCOJBを通じて当たり前のことを当たり前にするということを徹底して指導しています。挨拶、社会常識、人間関係の作り方、サッカーを通じて学べるものはたくさんあるという考え方も、ブラジル式と言えるでしょう。

 

経歴集:
横浜商科大高校→ジュベントスFC→アメリカFC→Cアトレチコ・ミネイロ→ヴェンダノーヴァFC→ECサンジョゼ→
ECキンゼデジャウー→ECサンジョゼ→CAペナポレンセ→イトゥアーノFC→ベルマーレ平塚→ECサンジョゼ→ECタウバテ

COJB公式HP:http://www.mundo-do-cojb.com/index.html

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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「ブラジル生まれのフットボーラー」渡名喜ジェフェルソン

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ブラジル時代の渡名喜氏
写真:ブラジル時代の渡名喜氏)

渡名喜ジェフェルソンは日本人の両親のもと、1983年にサンパウロで生まれた日系2世だ。幼少期をブラジルのストリートサッカーで技を磨き、両親の仕事の都合で8歳で日本に来日する。

「日本に来て始めに驚いたのは、自動販売機の存在でした。ブラジルなら、確実に機会を壊されてお金も中身もすべて盗まれるので。日本は治安のいい国なんだ、と。当時は日本語も話せない状態だったので、小学校では自分の年代より下の学年で日本語を学んだりと、いろいろと大変な部分も多かったです」

埼玉、長野、群馬、神奈川と各地を転々とし、なかなか思うように周囲に馴染めなかった渡名喜の心を癒やしたのはサッカーだった。もともとプロ思考だったこともあり、日本でもサッカーに打ち込み、高校時代には群馬県の強豪常磐高等学校で、インターハイに出場果たす。

高校卒業後は、石川県のLUZ.FCでプロ選手を目指して練習に打ち込むが、生活は厳しく、3時半~9時まで週5日間新聞の販売員として勤務しながら、サッカーに順次する日々だった。そんな生活も1年が過ぎること、渡名喜の中で母国ブラジルに対する思いは募っていった。

「自分の起源はブラジルにあるので、やはり特別な思いがあります。今でも連絡をとる友人も親戚も多いですし。だからこそ、ブラジルでサッカー選手として這い上がってみたい、そう思ってブラジルに”帰り”ました」

ブラジルでテスト生から這い上がった渡名喜は、CA JOSEENSE、GUARANI FCPで2年間プレー右サイドバックとして過ごした後、スペインでも1シーズンプロとしての実績を重ねた。

「ブラジルにしてもスペインにしても、その国、その国でサッカーのルールが明確で、文化を感じました。もちろんチームによって異なりますが、例えばブラジルでは右サイドバックは上がれ、という指導を受けました。ディフェンダーは守ってから、積極的に上がって攻めるのが鉄則でした。スペインではパスを回しが中心で、サイドバックは上がる事が禁じられてました。スペインでは、とにかく技術が高く練習は常に楽しかったです。ただ、激しくプレーするエリアの見極めは徹底されていましたね」

”センスのある選手ではなく、努力を惜しまないガッツのある選手だった”と自身を形容する渡名喜は、スペインから帰国後、J2、JFLのチームからオファーを受ける。納得した部分とできなかった部分があり葛藤するが、両親に相談した際「もうサッカーはいいでしょ」と言われ、今まで苦労をかけてきただけに、ふと肩の荷が降りた感覚を覚えたという。こうして渡名喜は選手としての生活に見切りをつける。

 

 

【次ページ】引退後は日本とブラジルの架け橋に

「ウルグアイサッカーに精通する男」松原良香

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エスタディオ・センテナリオ ロッカールームにて
(写真:エスタディオ・センテナリオ ロッカールームにて

Jリーグ開幕を翌年に控え、日本に空前のサッカーバブルの波が押し寄せつつあった1993年。松原良香は人知れず南米サッカーの古豪国である、ウルグアイの名門CAペニャロールにいた。

国外でプレーをする選手が増加した現在と比べると、当時は海外移籍の意味合いも、重みも異なっていた。ウルグアイからキャリアをスタートし、13年間の現役生活で4ヶ国、計12のチームを渡り歩いた松原の経歴は、20年が経過した現在も異彩を放っている。

松原は1974年に、サッカー王国静岡県に生まれる。幼い頃からサッカーを始め、世代別の代表に選出されていた松原は、高校卒業を前にヤンマー(現・セレッソ大阪)など数チームからオファーを受ける。進学か、JFLか。迷った末、阪南大学に進学するが、入学を前に退学。

所属チームを失い、手持ち無沙汰な日々を過ごしていた松原に、再びサッカーと向きあう機会を与えたのは後にブラジル代表を破り「マイアミの奇跡」と呼ばれた、アトランタ五輪で日本代表コーチとして帯同する山本昌邦だった。

「山本さんにはジュニアユース代表時代から、よく面倒を見てもらっていました。そんな山本さんから電話をもらい『君達の世代は海外に出て行く必要がある。良香、海外に挑戦してみる気はないか』と。私自身、兄がアルゼンチンのCAティグレでプロ選手としてプレーしていたこと、親戚がブエノスアイレスの日本人会の会長をしていたので、元々海外に興味があり、プレーしてみたいという思いがあったんです。もっとも、始めてウルグアイという国を聞いた時は知識も情報もなく、一体どこにあるの?という状態でしたが。笑」

真冬にホットシャワーも満足に使えない、4畳半の安ホテルでの生活。深夜まで鳴り響くキャバレーの騒音。決して良いとは言えない治安。
ウルグアイの環境は19歳の若者にとって始めての経験の連続であったが、選手としての屋台骨を築くための気づきも多かった。

「グランドは芝も剥げていてボコボコで、雨が降れば水が抜けない。とてもじゃないが、天然芝と言えるシロモノではなかったですね。ボールの数も限られていて、人数分には全然足りない。リベルタ・ドーレスで5回も優勝するようなチームが、こんな環境で練習をしているのか、と衝撃的でした。それにミスをしても誰1人、他人や、環境のせいにしない。だから、選手としても、人間としても個性があり、魅力的に映りました。自分の足に家族の生活が掛かっている選手達を見て、ハングリー精神とはこういうことを言うのだな、と最初に在籍したクラブで学べたのは大きかったです」

 

 【次ページ】松原の考えを大きく変えた環境とは

G大阪サポーターがたむけん批判?著名人はサポーターになれないのか

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Twitterより
たむらけんじTwitter

ガンバTVの司会としても知られる、お笑い芸人のたむけんこと、たむらけんじさん(41)に対し、一部のガンバサポーターが「たむけん嫌い」、「セレッソ大阪サポーターになれ」とTwitter上で批判。これに対し、たむらけんじさんは「なんでやろ?僕何かしたかな?教えて下さい」と返信。嫌いな理由の1つに、G大阪を利用しているとの声もあったが、著名人が一般人同様に好きなチームの応援をすることは問題なのか?

■著名人と一般人の違いは何?
「優勝のかかった試合や、大事な試合にしかこない」というコメントに対したむらけんじさんは「他の試合も行ってますよ。仕事してるんでね、全ての試合は見には行けませんが毎回スケジュール見て行ける時で見に行きたい時は行ってますよ」と説明。そもそも会社員のサポーターでも学生のサポーターでも、他の予定が入ってしまったり、仕事やアルバイトがあった場合に、スタジアムへ足を運ぶことができない可能性はあるだろう。これは著名人であっても一般人であっても同じことである。

「なぜあなたは選手でもないくせにシャーレに触れてるんですか?なんで選手でもないくせに背番号10の名前入りのユニを着てるんですか?結局そう言うところから嫌われるんやと思う」とたむらけんじさんに対し返信したサポーターもいるが、これは問題なのか?たむらけんじ氏はガンバ大阪を応援する番組のMCを務めており、選手やチームと仕事をする機会も多い。一緒に優勝を祝うことをクラブ側がお願いした可能性もある。

 

■ガンバ大阪を利用した宣伝?
「おはようございます!大阪幸せ天気!こんな日にガンバ大阪がリーグ優勝するなんて最高やんか!せやねん!終わり次第徳島向かってこの目で2冠目の優勝を見てきます!そして、夜はビールかけやー!とにかくええ1日になりそうやで!」というツイートに自身が代表取締役を務める、株式会社田村道場の「炭火焼肉たむら」の写真を添付したことがガンバ大阪を利用して客を増やそうとしているとの指摘もあった。これに対し「これのどこがガンバ大阪利用してんの?どこ?優勝したらSALEやるとか言うてる?えっ?何?何?これでうちの店が満席になるか!俺のツイートや!」と反論した。確かにお店の写真を添付しているが、ガンバ大阪関連のサービスを行う告知でもない。

 

たむらけんじさんはこの一連のやり取りに対し、「こんなに盛り上がっているのに、残念」と振り返った。ガンバ大阪としてもこのような対立は望んではいないであろう。同じサポーター同士、ガンバの優勝を喜んで欲しいと願っていることだろう。天皇杯で優勝し、3冠達成の喜びをわかちあうことはできるのか。

 

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奈良クラブ岡山一成「地域決勝大会はトヨタカップに似ている」

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奈良クラブ:岡山一成
(写真:奈良クラブ岡山一成選手)

「俺はJ2からJ1への昇格は何度も経験しているけど、地域リーグからJFLは初めての体験。Jの時は昇格できるとか肌で感じる部分はあったけど、今はまったくわからない」と奈良クラブのFW岡山一成は話していた。2004年の川崎フロンターレ、2005年のアビスパ福岡、2006年の柏レイソルと3年連続でJ1昇格に関わっていることから、「昇格請負人」と呼ばれる男は2014シーズン、奈良クラブで新たなチャレンジに挑んでいる。Jリーグ、韓国リーグ、地域リーグと3リーグを経験した岡山にプロとアマチュアの違い、地域リーグのおもしろさなどについて話を聞いた。

-奈良に加入し、1年が経ちました。また1つステップをあがりますが今の心境は?
岡山:昇格請負人とよく言われるが、自分が今まで関わってきた昇格は全て、J1を一度経験して、それなりの施設もあって、総合的に上でできるチームばかりだった。松本山雅FCのように県リーグから昇格していくというのは、俺にとってまだまだ知らない世界で、地域リーグからJFLへ、そこからJ3とこんなに厳しい世界があることを知らなかったです。

 

-地域決勝大会について感じるものはある?
岡山:対戦相手もあるけれど、この3連戦というのは自分たちの力を問われると思う。J2からJ1に上がる時は、これは上がれるなとか、これはあかんなというのがチームの雰囲気とか周りの声でわかったけど、今はわからない。数値とかではなく、感覚で感じるものがありました。このレベルでどこまでいけるのかは本当に未知数で、自分はJ2からJ1への昇格請負人だったけど、このカテゴリーは全くわからないのでおもしろいなと感じます。

 

-地域リーグでの戦いに魅力を感じている?
岡山:Jリーグでは、外国人枠の選手とか、香川真司くんのように海外でプレーできる選手がいたりとあのチームはちょっとずるいなと思うときも正直あるけど、この地域リーグというのは本当に似たようなチームばかりだなと思います。その中でどうやって組織となって戦うかなど考えて過ごした1年はおもしろかったですね。シーズン開始前までは「しんどいんとちゃうか」とみんな思っていたが、日が経つにつれて「行けるかもしれんぞ」に変わっていきました。FC大阪との一戦はホームでなんとか引き分けたのに、2戦目で大勝できたのは成長をしているなと感じました。

 

‐全社で地域リーグの醍醐味などがまたわかった?
岡山:地域リーグは本当に差がないなとわかったのが全社でした。サウルコス福井戦もどっちが勝ってもおかしくない試合だったし、リーグ戦で大勝した、FC大阪が優勝するなどここまで読めないリーグや試合も久しぶりですね。

 

‐全社や地決は難しいと感じる?
岡山:相手チームのビデオや映像を手に入れるのも難しいし、全社や地決はクラブワールドカップに近いなという感覚を持ちました。アジアチャンピオンズリーグは相手の感覚をつかむことができるから少し違って、アフリカ王者とか、北中米王者、南米王者と対戦した時は、どんな相手だろうと感じるし、短期間で集中して挑む大会ということもあり似ているなと思う。

 

 

【次ページ】全国で色んなサポーターと会えるのが楽しみ

【インタビュー】ブラジルからの逆輸入を目指す赤塚京介の挑戦

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赤塚京介選手
(写真:FC大阪時のFW赤塚京介)photo:Shirai Seiji

FC大阪に練習参加していた、ブラジル人選手の代理人が1人の日本人ストライカーに目をつけた。「彼はブラジルで通用する可能性を秘めている」そう評価されたのが、ブラジル・カステロフットボールクラブに期限付き移籍した、FC大阪FW赤塚京介。
2014年に大阪商業大学からFC大阪に新加入した赤塚は、この1年で精神面からプレーの質まで大きく成長した。出場機会に恵まれなかった昨年を振り返り、「この1年は色んな方に出会えて、いろんなプレーを学ばせていただきました」と語った。夢へのステップアップとしてブラジル移籍を選択した赤塚に、ブラジル移籍の経緯や今後の夢について話を聞いた。

‐いつ頃にブラジル移籍の話があった?
赤塚:12月の初旬に、話は聞きました。海外志向は元々あったので、迷いはなくすぐに行きますと返事をしました。

 

‐ブラジルに渡るにあたって不安はない?
赤塚:FC大阪で試合に出ずに行くのは、大丈夫なのかなという気持ちはありました。話が具体的になるにつれて、不安になりましたが今はやってやろうという気持ちしかありません。

 

‐ブラジルサッカーについてどんなイメージを持っている?
赤塚:まだあまりイメージが湧かないです。ヨーロッパのサッカーだと目にすることも多いですが、ブラジルのサッカーリーグは日本であまり報道されない。さらに自分が移籍するカステロはサンパウロやリオ・デジャネイロから少し離れた田舎にあるので、あまり情報がありません。

 

‐言葉の壁などがあると思うが。
赤塚:日本語の通訳などはいません。代理人が日本語を話せるぐらいです。でも今本を見たりして懸命に覚えています。

 

‐FC大阪で過ごした1年はどう受け止めている?
赤塚:本当にチームに恵まれたなと思っています。このチームに入ってなければこのようなチャンスも巡ってこなかったですし、先輩方が本当によくしてくれました。岳登さん(DF近藤岳登)や康太さん(FW菅原康太)には特にお世話になりました。2人にはサッカーに通じる良い意味でのチームの盛り上げ方を教えてもらうこともできました。感謝しかないですね
‐またFC大阪でやりたいという気持ちはある?
赤塚:もちろんあります。吉澤会長から「大きくなって帰ってきて欲しい」と声をかけていただきましたし、絶対に中途半端なままではダメだと思います。

 

‐具体的にどのようなところを伸ばしたい?
赤塚:まず自分はポストプレーや、体を使ったプレーが得意なので、その部分は磨きをかけたいと思います。FC大阪にもブラジル人選手はいましたが、やっぱり足元がうまかった。向こうに行ったらそんな選手がゴロゴロいると思いますし、そういったところをどんどん盗んでいきたいと思います。

 

‐この1年で技術的にも自信を持てた部分はある?
赤塚:昨春にあった京都サンガF.C.との練習試合です。ヘディングでゴールを決めた時に、自分のこういったプレーは通用すると感じました。

 

‐逆に難しさや苦労もあった?
赤塚:試合に出ていない時、コンディションを整えることや、試合勘をなくさないようにするのは難しかったです。でも先輩方に試合に出れない時のモチベーションの保ち方も教えていただきました。あと状況、状況でプレーの切り替えが今までとは違いました。慣れるのにも時間はかかりました。

 

【次ページ】これまでにないタイプの日本人ストライカーを目指す。

各カテゴリーの昇格組の成績を振り返る J1以外は上位に食い込む

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奈良クラブ公式サイトより
奈良クラブ公式サイト

今季のここまでの成績を見ると、J1以外のカテゴリーで昇格組の躍進が光る。J2のツエーゲン金沢は3月29日に開催された、J2第4節から5連勝を記録し、現在2位につけている。FW清原翔平が、8試合で7得点と結果を残していることも好調の要因となっている。

昇格組が好調をキープしているのはJ2だけではない。JFLからJ3に昇格したレノファ山口は、開幕から5連勝で首位をキープ。また地域リーグからJFLに昇格したFC大阪(4位)と奈良クラブ(5位)は、1st第7節を終えて、首位と勝ち点差2と上位につけている。

今季J1に昇格した、湘南ベルマーレと松本山雅FC、モンテディオ山形は苦戦を強いられているものの、各カテゴリーの差が縮まってきていることを昇格組が示している。

■昇格組のここまでの成績(4月24日時点)

・明治安田生命J1リーグ
湘南ベルマーレ  13位 2勝3敗1分け 勝ち点7
松本山雅FC    15位 1勝3敗2分け 勝ち点5
モンテディオ山形  17位 1勝4敗1分け 勝ち点4

・明治安田生命J2リーグ
ツエーゲン金沢 2位 6勝2敗 勝ち点18

・明治安田生命J3リーグ 
レノファ山口 1位 5勝 勝ち点15 

・JFL
奈良クラブ 5位 5勝1敗1分け 勝ち点16
FC大阪  4位 5勝1敗1分け 勝ち点16
流経大ドラゴンズ龍ケ崎 13位 1勝6敗 勝ち点1
※奈良クラブとFC大阪は得失点差でFC大阪が4位、奈良クラブが5位

 

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京都U‐15が世界切符を獲得「日本の代表チームとして、大暴れしたい」

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優勝した京都サンガU-15
(写真:優勝した京都サンガU-15)

JFAプレミアムカップ2015が5月3~5日にJ-Green堺にて開催された。決勝戦では、コンサドーレ札幌U-15と京都サンガFCU-15が対戦し、6対0で京都が勝利を収めた。京都は8月にイングランドで行われる大会「プレミアカップ・ワールド・ファイナルズ2015」の出場権を獲得。日本代表として参加することが決まった。

優勝した京都の江川慶城主将は「ベンチメンバーのサポートがあってこその結果で、チームとして勝ち取れた優勝です。連戦が続き疲れもありましたが、お互いがマッサージするなどケアをして、大会を通してチームの雰囲気が良くなっていきました。マンチェスターの世界大会では日本の代表チームとして、大暴れしたいです」と話した。

またU-15日本代表監督森山佳郎(47)も視察に訪れた今大会、京都からはベストイレブンに5名が選出されている。

【決勝戦でインパクトのあった選手】

コンサドーレ札幌 
6番 福田心之助 
左サイドをスピード感あるドリブルで何度も突破。正確なクロスで好機を演出する。

24番 鈴木雄万 
162㎝と小柄な体格ながら、両足の高い技術と少ないボールタッチで攻撃にリズムを生み出す。視野も広く正確なサイドチェンジも魅力。
14歳とは思えない落ち着いたプレーが印象的。

京都
7番 江川慶城
コンサドーレに押され気味の展開の中、打点の高いヘディングで先制点を挙げる。岸本監督も『チームの中心選手』と話す通り、
攻守にバランスのとれたプレーで中盤を制圧した。キャプテンとしてピッチ内外でチームを鼓舞し、優勝に大きく貢献。

2番 竹島京介
完成度の高いCB。ビルドアップのミスも少なく、DFリーダーとして完封に貢献。鋭い読み、相手を何度もオフサイドにかけたライン統率力も光った。

9番 津野絢世
ベストイレブン入りは逃したが、鋭い飛び出しと豊富な運動量でチャンスに絡む。体を張った泥臭いプレーもいとわず、常にゴールを狙う姿勢が目立った。相手DFとの駆け引き、味方からパスを引き出す動きは非常に高いレベルにあった。岡崎慎司を彷彿させるプレースタイル。

【ベストイレブン】
GK井ノ尾匠(京都)
DF福田心之助(札幌)、竹島京介(京都)、江川慶城(京都)、山崎大地(広島)
MF谷内田哲平(長岡)、菅原由勢(名古屋)、本間至恩(新潟)、服部航平(京都)
FW桂陸人(広島)、福岡慎平(京都)

【フェアプレー賞】
コンサドーレ札幌

プレミアカップ2 プレミアカップ3

(取材:栗田シメイ)

 

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【特集】FC大阪の躍進を支える ドゥダヘッドコーチの存在

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ドゥダヘッドコーチ
FC大阪公式サイト:photo by Shirai Seiji)

JFL1stステージ第11節が10日に各地で行われ、FC大阪はキンチョウスタジアムで、アスルクラロ沼津と対戦した。この日はS級ライセンスの講習で森岡茂監督が不在となり、代わりにドゥダヘッドコーチが指揮を執った。

2011年から2014年まで、Fリーグのシュライカー大阪を指揮したドゥダヘッドコーチは、熱血的な指導をすることから、選手の信頼も熱く、FC大阪でも、これまでの経験を生かしてチームを支えている。そして10日の試合では、JFLで初めて指揮を執ったが、積極的な采配からチームを勝利に導いた。

 

■思い通りの試合運びを見せた初采配
試合開始からボールを支配するFC大阪だったが、チャンスらしいチャンスを作ることができずに、逆にピンチを迎える場面も見えた。しかし、いち早くこの異変に気づいたドゥダヘッドコーチは、選手たちに沼津の狙いを伝え、選手たちのポジション修正をおこなった。この作戦が功を奏し、前半24分に良い形から先制点を奪い、さらには39分に追加点で相手を突き放した。前線から積極的な守備を見せる相手の攻撃を受け、ドゥダヘッドコーチはその相手の考えを逆手にとり、自陣でボールをうまく回し、相手の体力をじわじわと奪っていく。
「後半に、相手よりも良いコンディションで戦いたい」これが狙いだった。後半に入ると沼津はボールを支配し、ゴールを狙ったが、コンディションで上回る、FC大阪イレブンが最後のところでうまく対応し、得点を許すことなく、2-0で勝利を収めた。

 

■成長した姿を見せたブラジル人選手たち
FC大阪には、FWフィリピーニョ、FWジュニーニョ、MFタリッキのブラジル国籍の3選手が在籍しているが、ドゥダヘッドコーチへの信頼は厚く、父親のように接している。特に成長した姿を見せているのはフィリピーニョ。来日当初は、気性が荒く独断プレーが目立った。しかし、この行為をドゥダヘッドコーチは許さなかった。ルールや規則を守ることの大切さ、そして人との信頼関係を築くことの大切さを教えた。フィリピーニョはドゥダヘッドコーチの言葉を親身になって受け止め、これまでにない姿を見せる。そして来日してからなかなかコンディションが上がらなかったタリッキもドゥダと一緒に日々を過ごすことによって、生活リズムも整い、日本の環境に慣れ、いっきにコンディションが上がり、今ではチームに欠かせない存在になっている。

 

【次ページ】チームは家族、家族は俺が守る ドゥダのチーム愛

【特集】FC大阪のJFL昇格を支えた「腸内環境」の力

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高畑宗明農学博士
(写真:株式会社バイオバンク統括部長 高畑宗明農学博士)

2015シーズンからJFLに新規参入した、FC大阪のトップパートナーを務める株式会社バイオバンク。クラブに対し金銭面でのサポーティングの他に、サプリメントの提供と身体についての個別指導を行っている。今回、株式会社バイオバンクの統括部長を務める高畑宗明農学博士にスポーツと腸内関係についての話、またFC大阪の吉澤正登会長にも出席していただき、これまでの成果などについての話を聞いた。

‐スポーツをすることにより腸内環境が悪くなる?
高畑宗明農学博士(以下、高畑博士):スポーツの強度によりますが、一般的なウォーキングやランニングというものであれば特に問題はありません。MAXの運動量の70%を越えてくると、回復が追いつかなくなってきてしまいます。運動することで筋肉が傷つくと、そこの回復が優先的になるので、血液がそちらに集中してしまいます。そうすると腸に血液が行き渡らなくなるので、腸の細胞が荒れてしまい、そこから吐き気が起こったり、下痢になったりという症状が出てしまいます。腸が荒れると有害なものが入りやすくなるので、アレルギー反応が起こりやすくなってしまう。運動すればするほどケアする重要性が増してきます。

 

‐腸内環境の為のケアの方法とは?
高畑博士:まずは、食事のバランスに気をつけなければいけないということ。オススメしているのは発酵食品をしっかり摂ることです。あとは休息をしっかり取ることも大切です。朝起きる時間や夜寝る時間のリズムを整えることも重要です。リズムを整えることで、神経のバランスも整ってきますし、腸というのは食べたものを出さないといけない。それも一定のリズムで成り立っているので、そこも良くなっていきます。睡眠というのは休息の時間でもありますが、便を作り出す時間でもあります。就寝とは、朝きちんと排泄をするための準備の時間で、最後に食べたものと朝食の時間が短いと、きちっと腸が動かなくなります。夜ご飯は9時までに食べるとか、空腹の時間を8時間以上作ってあげるということは腸にとって大事なことです。

 

‐腸内環境はどれぐらいの期間で変えることができる?
高畑博士:筋肉が全て生まれ変わるためには、2ヶ月とか3ヶ月の時間が必要になります。それに比べて、腸の細胞は5日で変わります。それぐらいどんどん細胞を変えることによって、新鮮さを保ち、外敵が入ってくることから守ったり、食べ物のいる、いらないをジャッジしたりを繰り返します。日々のケアは本当に大事です。

 

‐スポーツ選手と一般人の栄養の摂取方法は変わってくる?
高畑博士:一般的な摂取方法は、バランスを考えた食事。色々な部分に栄養が必要なので、『朝、昼、晩しっかりと摂りましょう』、『色々な食材を食べましょう』と言ったことがあると思います。スポーツというのは、持久力を問われるものであったり、瞬発力を問われるものがあると思います。その種類によってビタミンの摂り方は変わってきます。量や質なども具体的に絞って摂取した方が効果的に摂取することができます。もちろんベースはありますが、そのベースに上積みするならこういうものが良いというものはあります。

 

 

【次ページ】JFLでのFC大阪の躍進の理由のひとつ

フットサルの欧州王者イタリアでプレーした永井義文が語る「日本との違い」

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シュライカー大阪・永井義文選手

2008年にFリーグのシュライカー大阪に加入した永井義文。セレッソ大阪の下部組織からびわこ成蹊スポーツ大学に進学、その後シュライカー大阪のセレクションに参加した。トップチームのセレクションでは良い返事を獲得することはできなかったが、当時シュライカー大阪サテライトの監督を務めていた、ドゥダ ドス サントス氏(現:FC大阪コーチ)の目に止まり、サテライト入りを果たす。ドゥダ氏の下、永井はメキメキと力をつけていき、次の年にはトップチームに昇格。さらに2010年には日本代表に初選出されるなど輝かしい成績を残している。また昨年はイタリア・セリエA2のフットサルイソラでプレーし14試合に出場し10得点を記録している。現在はシュライカー大阪に戻り、PIVOとしてチームを引っ張る。そんな永井が吉本興業とマネジメント契約を結んだ。今回吉本興業とマネジメント契約を結んだ理由や、今後の活動予定や、目標について話を聞いた。 

 

 −セリエA2でプレーしてみて、日本との違いをどのように肌で感じたのか?
永井義文(以下、永井):例えるなら日本はビニールハウス。温室といいますか、かなり環境が良いです。ピッチもしっかりしていて、冷暖房も効いていて、審判もしっかりしている。選手もフェアプレーを守っている。イタリアはフィジカルコンタクトは凄いですし、削るプレーもあります。あとはホームとアウェイで全然環境が変わります。 

 

−ホームとアウェイで環境が変わる?
永井:アウェイに行くと、サポーターから唾をかけられることもあります。それは選手だけではなく、審判も同じです。ちょっとでもホームチームに不利なジャッジをしてしまうと、外でサポーターが待ち構えていて、今にも殴りかかりそうな雰囲気を出しています。だから毎試合拳銃を持った警察官が、スタジアムの外と中に20人から30人ぐらい配備されていました。そういう環境の中でプレーすると、審判もホーム贔屓になってしまいます。サポーターに車をボコボコにされた審判もいますし、やっぱりそんな中で試合をすると試合結果も大きく変わりますね。 

 

−その中でプレーしたことで培われたこともある?
永井:なにくそと思いながらプレーをしたり、負けん気はかなり強くなりましたね。ミスをしたときに、サポーターは日本語がわからないので、イタリア語で罵声を浴びせてくるのですが、僕は意味がわからないので、へこたれることはなかったです。でも途中からそれがばれて、「日本語で罵声を浴びせるときに何て言うの?」とサポーターに聞かれて、「天才」と嘘を教えました。そしたら、試合中に「天才」と言われて、逆にテンションが上がりましたね。 

 

−やはりサポーターの違いはあった。
永井:サポーターの数は日本と同じ、1000人から2000人ぐらい。でも圧力が違いました。日本のサポーターは座って試合を見ていますが、むこうはみんな立って見ていて、本当にコロシアムみたいな雰囲気でしたね。 

 

−日本に帰ってきてFリーグへの貢献
永井:Fリーグやシュライカー大阪を知っている人はまだまだ少ないと思います。まずはそこを知ってもらうことがスタートだと思います。「今シュライカーを知っている?」と聞くと「セレッソやガンバじゃなくて?」という返事が多いのが現状です。「シュライカー?永井っていう選手いるよね」という返事にかわれば嬉しいですし、僕をきっかけにFリーグやシュライカーを知ってもらいたいです。それが競技の普及にもつながると思いますし、吉本興業さんにご協力をいただきながら、いろいろなイベントに出たいと思います。 

 

−吉本興業とマネジメント契約を結んだきっかけとは?
永井:僕自身が以前から興味を持っていました。びわこ成蹊スポーツ大学の先輩である、FC大阪の近藤岳登選手が吉本と契約するときに間を持った人とたまたま会う機会があって、「岳さん吉本と契約したらしいですね」と話したら「お前も興味あるのか?」と尋ねられて、そこで紹介していただきました。 

 

−いつ頃から話をしていた?
永井:イタリアに行く前ぐらいですね。そこから半年から1年かけて、どういう形にするのかを話をして、試行錯誤を繰り返していました。 

 

−こんなイベントに出たいなどはございますか?
永井:僕自身しゃべることが好きで、今回は『月刊たむスポ』に出演させていただき、サッカーというグループのもとトークをさせていただきました。僕は他の競技も好きなので、今後はバレーボールや陸上などいろいろなアスリートとトークをしてみたいです。テレビやラジオももちろんのこと、今後はしゃべる仕事もどんどんしていきたいと考えています。 

 

−夢や目標は?
永井:まずは2016年のコロンビアW杯に出場して、いい結果を出したいと思います。シュライカーの試合に一人でも多くのサポーターに足を運んでいただきたいので、優勝を目指して頑張りたいと思います。また弟(永井龍)がセレッソ大阪でプレーしているので、サッカーとフットサルと違いはありますが、お互いに代表に選出されて兄弟アスリートとして活躍したいです。 

 

アルビレックス新潟シンガポール 奥山達之監督「今年は優勝を狙っている」

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ASEAN FOOTBALL LINKより
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シンガポール・Sリーグを戦う日系クラブ、アルビレックス新潟シンガポール。現在、同クラブの監督を務めるのが奥山達之だ。アルビレックス新潟の育成年代やレディースチームの監督を歴任したのち、2013年シーズンからシンガポールに渡り、昨シーズンから監督を務める。海外リーグに日本人だけのチームが挑むという、特殊な環境下で戦う指揮官に話を聞いた。

-昨シーズンからアルビレックス新潟シンガポールの監督をされていますが、どういった経緯で就任されたのですか?
2012年まではアルビレックス新潟レディースの監督をさせていただいていて、2013年にシンガポールに来ました。最初のシーズンは杉山弘一前監督(現・柏レイソルコーチ)のもとでコーチをさせていただいていました。監督としては今年が2年目になります。
 

-最初、シンガポールリーグについてはどんな印象を持ちましたか?
はじめに感じたのは、スタミナがないということです。リーグ全体に、90分通してアグレッシブにサッカーを続けられるチームがないという印象でした。暑さの影響も間違いなくあるとは思いますが、うちは90分できていますから。他のチームは、できていない理由が何かあるのだろうなと感じます。局面での激しさはあるんですが、全体としてはダラダラとしていてプレーイングタイム(ゲームの中で実際にプレーしている時間)が短いのも気になりました。シンガポールに限らず、東南アジアのチームのプレーイングタイムは60分と言われています。Jリーグは75分くらいですから、短すぎますよね。

 

-その他に、日本とのギャップを感じる部分はありますか?
タイなどもまだそういう面があると思いますが、リーグの運営面はもう少しクオリティを上げなければいけないと感じます。文化的なこともあるので全てを否定するわけではないのですが、タイムスケジュールやグラウンドの状況などゲームを行うためのいろいろな準備の面で、正直、目につくところが多々あります。タイムスケジュールもあってないようなもので、日程変更ももちろんありますから。せっかく暖かくてこんなにいい環境があるわけですし、もうちょっと効率よくやればもっと選手も育つと思います。すごくいい素材の選手もたくさんいますから。
 

-Sリーグのローカル選手には、才能豊かな選手も多いですか?
身体能力の高い選手もいますし、レベルが低いとは思いません。
 

-シンガポール人選手は、どんな特徴があるでしょうか。
体の大きさも近いですし、東南アジアの国はどこも似ているんじゃないでしょうか。シンガポール人選手に限った特徴は特にありませんが、球際の激しさは感じます。行くところは行くし、「やめる」という判断はあまりないというか。行く時はとにかくガツンと行く、というのは感じます。

 

【続きはこちら】日本人の長所や短所、若い選手が日本を離れて海外でプレーすること

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アルビレックス新潟S是永大輔社長が「元祖アジア戦略」について語る

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シンガポール・Sリーグで戦う日系クラブ、アルビレックス新潟シンガポールの社長を務める是永大輔氏。シンガポールでの戦いは10年を超え、昨季は新興のカンボジアリーグへの進出を試みたが、わずか一年で撤退を余儀なくされた。そこにはどんな現実があったのか。Jリーグが「アジア戦略」を掲げるはるか以前からアジアを舞台に戦いを続ける、「元祖アジア戦略」の今に迫った。

-急成長するリーグの多い東南アジアですが、シンガポールリーグの現状はどんなものですか?

経済的には各チーム、助成金と分配金とカジノの売上によってある程度お金は持っています。ただ、逆にそれだけでまわってしまうから、集客やスポンサー集めに必死にならないんですね。アルビレックスの場合は分配金の金額がかなり少ないので、地域での取り組みもしながら周囲の理解を得る努力を継続しないとなかなか難しいです。
 
-観客やグッズ収入についてはどう見ていますか?

現状はほとんど勘案していません。近年のタイを除いた東南アジアはどこも同じような状況じゃないでしょうか。マレーシアリーグなども観客は入っていますが、チケット収入はそれほどではありません。各国とも、まず観客を入れることが一番重要な段階だと思うので、現状をチケット収入の金額にこだわらなくてもいいとは思いますが、ここからどうなるか、ですね。タイリーグも4年くらい前までは同じような状況でした。上位のブリーラム・ユナイテッドなど数チームはしっかりしていますが、ディビジョン1(2部)のクラブなどでは給料の未払いが増えてきたようです。それが広がってくると、今盛り上がっているタイも難しい時代が来る可能性はあると思います。
 
-アルビレックス新潟シンガポールがシンガポールリーグで戦う一つの意義として、「若い日本人選手が海外で堂々とできるようになる」ということを挙げられています。

もちろんサッカーは大好きですが、極端に言えばサッカーはツールだと思っています。アルビレックスの存在があることで、選手やスタッフなどの日本人が海外に出て来るきっかけになれば、と思っています。その後、シンガポールから別の国に行ってもいいですし、結果、世界中で得た経験をこれから踏ん張らなくてはいけない時代が来る日本に役立てたいと思っています。現在のアルビレックスは外国チームの扱いですからリーグ優勝してもアジアの大会に進むことはできません。ですので、意義をそう設定しました。

 

【続きはこちらから】カンボジアリーグに参戦したアルビレックス新潟プノンペンが1年でリーグ撤退となった理由とは?

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小野雄平がセカンドキャリアについて語る「タイに行ったから今の自分がある」

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リーグが抱える大きな課題の1つに、引退後のセカンドキャリアが挙げられて久しい。平均引退年齢26歳といわれる選手生活を終えた後、思うような仕事につけない、という声を耳にする機会も少なくない。小野雄平は、引退後に世界的なシューズメーカー「New Balance」への就職を果たすという、稀有な経歴を歩んでいる。いかにして、小野は自身のキャリアを形成したのか。その答えは現役生活の最後を過ごした、タイの地にあった。

―まず、現役生活を終えられたということでお疲れさまでした。選手生活を振り返り、悔いは残っていますか?
小野雄平(以下:小野)「率直に言うと、もうやり切ったとな、思っています。なので、悔いは全くありません。ヴェルデイではトップチーム昇格を果たせましたし、ファジアーノでは地域リーグ時代から、Jリーグへステップアップしていく様子を体感できました。福島や盛岡でもいろいろな経験ができましたし、異国の地でプレーすることもできた。怪我も多かったですが、自分の選手生活には満足しています」


―もともと海外でプレーすることに興味があったのでしょうか?
小野:「海外でプレーすること、というよりは他の国の文化に興味がありました。タイに来たのは、代理人の推薦や、タイミングなど様々な要素が重なった結果ですね」


―タイリーグの印象についてはどんな印象を持ちましたか。
小野:「正直、ボールを扱う技術、戦術などの面で見てもレベルは高くないと感じました。これはチームによって事情が異なると思いますが、少なくとも去年のサイアム・ネービーではそうでした。予算、設備、選手なども含めて降格候補筆頭に挙げられていたチームだったので。そこから、あれよあれよのうちに、1部昇格までいくとは想像もできませんでした。笑」

―では、魅力については?
小野:「一度、知人の奥さんがタイリーグを観戦に来たことがありました。その際に、『どうだった?』と聞くと、Jリーグより迫力があって面白い。と答えが返ってきました。サッカーの素人の方から見ると、直接的で展開が早いタイリーグの試合は魅力的に映ったんだと思います。その言葉を聞いて、『なるほどなー』と。まさにその意見が、的を得ているのではないでしょうか」

 

【続きはこちらから】タイに行って当たり前のことが当たり前じゃないと気づくことができた

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ハンガリーを中心に東欧で12年間プレーした本間和生「ラオスでキングになる」

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日本人選手の海外でのプレーが今ほど当たり前ではなかった時代から、長く海外を舞台に戦い続けている本間和生。ハンガリーを中心に東ヨーロッパで12シーズンを戦い抜いたストライカーは、昨季移籍した東南アジアの新興リーグ・ラオスプレミアリーグで得点王に輝いた。その数字は17試合29ゴールという驚異的なもので、今季も同様のペースでゴールを量産中だ。ラオスリーグの「キング」となった35歳の日本人FWに話を聞いた。

-ラオスリーグに移籍した昨季は、17試合29ゴールという素晴らしい成績で得点王となりました。個人としては充実したシーズンだったのではないですか?
本間:そうですね。チームとしては2位だったんですけど、個人として結果が出たという意味ではいいシーズンだったと思います。どんなレベルであれ、あれだけ点を取ったことはこれまでなかったですから。

 

-あれだけの活躍をすると、他クラブからのオファーなどもあったのではないですか?
本間:契約を延長したあとに、話が来たものはありました。ただ、僕はラオトヨタFCに恩があると思っているので、もともと「延長の話があれば喜んで」という気持ちではいました。ラオトヨタFCに関しては、「1シーズンはこのメンバーで戦うんだ」というスタンスでいてくれるチームで、東南アジアではよくある契約期間中の契約解除のようなこともこれまではありません。選手を守ってくれるクラブだと感じています。もちろんそこにあぐらをかいてはいけないですし、だからこそ余計に結果を出していかなければいけないと思っています。

 

-「恩がある」というのは、どういった点に感じているのでしょうか。
本間:去年、ラオトヨタFCに入るまで半年間チームがない状態だったので、「拾ってくれた」という思いがあります。チームが決まらない状況が続いていた中で、最後にこのチームに決まったので、やはり恩は感じますよね。

 

-たとえば、隣国であるタイのクラブへのステップアップなどは考えませんでしたか?
本間:特に考えなかったです。僕の場合は、しっかりと毎日トレーニングをして結果を出し続けていれば自ずと道は開けてくるんじゃないかと思っているので、あまり先のことは考えていないんです。今回これだけ点を取ったからタイからオファーがあるかな、というような考えは全くしていません。10代や20代の前半であれば別の話にもなってくると思いますが、僕の場合は年齢も年齢なので選択肢が限られているというのもあります。サッカーをすることができていること自体が「ボーナス」だと思っているくらいなので。

-昨年の実績から、今シーズンはマークも厳しくなっているかと思います。
本間:ラオスでは下の名前から「カズ」と呼ばれているんですが、今季は試合中に相手チームの選手たちが「カズ」という名前を言っているのは頻繁に聞くようになりました。多少マークも厳しくなっていると思いますし、意識して守っているなというのは感じます。

 

-そんな中でも、今シーズンもゴールを重ねていますね。
本間:これまでもそうだったんですが、僕はコンディションがいいとか悪いとかいうのを感じたことがないんです。ハンガリー時代に怪我を騙しだましやっていた時に、一度だけ「やっぱり、ちょっとおかしいな」と感じてなかなかゴールができないということはありました。でも、それ以外では感じたことがないんです。逆に言えば、コンディションをしっかり作れたから活躍できたという感覚も全くないですし、いつもどおりに今までやってきたことをやっているだけです。もちろん、サッカーに打ち込む姿勢とか心構えは常に向上しつつも、基本的には同じような感じでやっています。

 

【続きはこちら】僕の場合は点を取り続けていかないと先はない

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「沖縄にもっとサッカーを普及させたい」ブラジルのクラブで経験を積む平安山良太氏

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関西国際空港で撮影
(写真:帰国した平安山良太氏)

ブラジル・セリエAのアヴァイFCで育成コーチを務める、平安山良太氏が12月2日に日本に一時帰国した。平安山氏はJリーグの名古屋グランパスで育成アシスタントコーチを務めたあと、カンボジアのカンボジアンタイガーFCやラオス代表で研修を受けブラジルに渡った。「もっと沖縄県でサッカーを普及させたい」とブラジルに渡った理由を平安山氏は話してくれた。帰国した平安山氏へのインタビューを3週に渡って紹介していく。

-ブラジルには沖縄県出身の日本人が多く存在していますが、それは知っていた?
 平安山氏:県人会と言って、ブラジルに渡った日本人が出身地別に作っているコミュニティがあります。国際交流などが行なわれ、交換留学生なども多いです。それはブラジルに渡ってから知りました。しかも、沖縄県人会が1番多いと思います。

 

-言葉などでの苦労はなかった?
平安山氏:ポルトガル語はブラジルに渡ってから勉強しました。最初の1ヶ月はわからないことが多かったが、1ヶ月半ぐらいで意思疎通ができるようになりました。ブラジルの国民性か言葉がわからない僕に、めちゃくちゃ話しかけてきて、最初は両手を左右に広げてわからないとジェスチャーしていました。練習メニューを伝える際に、細かな部分が伝わらないこともありますが、1部リーグはやる気がある 選手ばかりなので、頭を使ってくれる。それはやりやすかったです。

 

-ブラジル人は日本のサッカーをどう見ている?
平安山氏:「日本人はサッカーを知っているの?」ぐらいの環境がブラジルではありますが、僕は仲間に恵まれていたこともあり、見下されることはなかったです。周りのブラジル人に日本代表の話しを聞くと、 「20年前だったら5点は取れたね。今は3~4点とまだまだブラジルでは格下に見られています。

 

-沖縄ではプロというカテゴリーがまだまだ普及していない?
平安山氏:スポーツをすることは、本土と変わらないぐらいのレベルで行っていますが、お金を払って見に行く習慣はまだまだありません。FC琉球がJ3に昇格し、プロチームが誕生したが、まだまだその部分に関しては発展途上だと思います。本土ではJリーグ開幕、日韓W杯と、2度サッカー人気が急上昇することがありましたが、沖縄県にはその熱があまり伝わらなかった。これは大きいと思います。

 

−沖縄でサッカーを普及させるために平安山さんができることとは?
平安山氏:いずれ沖縄県でユースの大会を開催したいと思います。ブラジルの強豪クラブコリンチャンスの下部組織の選手は、2ヶ月に1度ぐらいのペースで海外などに遠征し経験を積んでいます。そんなクラブを沖縄県に招致して、大会に出場してほしいと考えています。

 

【次回】ブラジルの育成世代と日本の違いなど

 

 〜平安山良太プロフィール〜
小学生よりサッカーを始めるが、ケガにより早期挫折。高校時代より指導者の道へ。日本で街クラブ、部活、Jクラブで幼稚園~大学生まで幅広く指導者として関わり多くを学んだ後、海外へ。東南アジアのトライアジアプノンペンFC(現カンボジアンタイガーFC)やラオス代表で研修の後、ブラジルへ。
ブラジル一部リーグのアトレチコ・パラナエンセ→SCコリンチャンス→Avai FCの下部組織にてアシスタントコーチを歴任。ライター、代理人業も広く行っている。

(取材・文:澤田悠樹)

 

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【特集】ペルーリーグ奮闘記。平識善昭の挑戦。海外で挫折を乗り越え開花した秘訣とは?情熱物語

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平識くん

ペルーリーグ1部、シエンシアーノで活躍する1人のサムライがいる。平識 善昭、20歳。今回は、南米王者を決める大会、リベルタドーレスカップにも度々出場する名門で、闘いの日々を過ごす若き青年との対談が実現した。インタビューアーはブラジル、コリンチャンスなどで指導者を務めた平安山良太。日本から1番遠い南米大陸にいる彼はなかなか日本のメディアには取り上げられ難い。故・松田直樹氏の追悼試合、ドリームマッチ群馬に海外組枠で、中田英寿・小野伸二・稲本潤一・楢崎正剛といった蒼々たるメンバーと肩を並べて出場する事から、一体平識選手とは誰なのか?そんな声が高まりつつある。

平識くん

平安山 :初めまして。ブラジルでサッカーコーチやライターや代理人など色々ごちゃごちゃやっている平安山です(笑)今回はアリアンサ・リマに短期研修でペルーに来ました。まさかペルーでサッカー選手をしている方がいるとは!まずは平識さんについて自己紹介をお願いしても良いですか?

平識 :初めまして!シエンシアーノの平識善昭です。埼玉県出身ですが、高校は群馬県の伊勢崎商業高校を卒業しました。でも僕の両親は平安山さんと同じく沖縄出身だったり、先祖はペルーにもルーツがあったり、僕も色々ごちゃごちゃしています(笑)

平安山 :平識さんはいったい何人なのでしょうか?(笑)サッカーの話になりますが、平識さんは現在、ペルーの名門クラブ、シエンシアーノに籍を置いています。日本でプロ選手歴が無かった高校生が、いきなり入れる様なレベルのクラブではありません。苦難などあった思いますが、どうやってここまできたのでしょうか?経緯を教えて下さい

平識 :苦難はたくさんありましたね(笑)実は僕が初めてペルーに来たのは小学生の時で、ペルーの日系人の大会に夏休みの旅行で参加した事がありました。その時の大会で優勝して優秀選手に選ばれ、逆輸入の様な形でペルー日系人と東京選抜との国際試合に出場したのがこの国との最初の関係でした。
その時に僕を見てくれていたペルー人コーチがいて、日本に帰ってから数年経っても時々連絡を取り合っていました。
そんな事がキッカケで、Jリーグよりも南米のリーグに挑戦する事がいつしか夢となっていて抑えきれなくなり、伊勢崎商業ではキャプテンを務めていましたが高校選手権前に3週間、ペルーのクラブへ行って武者修業してから選手権にのぞむなんて事もありました。
元々伊勢崎商業高校のメンバーは小学生時代からの仲間も多いんです。僕は健大高崎高校や前橋育英高校からのお誘いがあって、それはそれで嬉しかったんですけど、友達みんなで伊勢崎商業を強くしようぜ!という話が出て、僕もそれに乗った。
僕はキャプテンだったので、普段からチームメイトを気遣ったり、何か問題が起きれば職員室まで行って、仲間のために丸坊主にした上泣きながら頭も下げたり、なんてしていたんですけど、逆にチームメイトもキャプテンの僕が選手権前の大事な時期にペルー修業で一時的にチームを抜けるとなっても、僕が何か身に付けて帰ってきて、チームのために選手権に繋げる事が出来ればと、認めてくれたんです。
今回ペルーへ旅立つ時には、チームの練習日程の関係で卒業式前に日本を発ったんですけど、出発前に全校生徒サプライズで僕へ校歌を歌ってくれたり、感動して号泣しちゃったんですけど(笑)、本当に仲間には恵まれたなと思います。特に伊佐、見城、りなって3人は、今もずっと連絡取り合ってる親友です!

平安山 :素敵な友達ですね。平識さんの人間性が周りをそうさせるのかも知れません。羨ましい友達です。

 

明日は平識さんが『ペルーで経験した、外国人いじめ』についてをお送りいたします。

 

~平識 善昭プロフィール~
埼玉県出身 伊勢崎商業高校卒
藤岡キッカーズや伊勢崎商業高校でプレーした後、南米ペルーへ。日本でのプロ経験はない。ウニベルシタリオ→シエンシアーノと活躍し、ドリームマッチ群馬2015に出場予定。2016年からはブラジル挑戦を表明している。

~筆者・平安山良太プロフィール~
1990年5月21日生 沖縄出身 中京大卒
小学生よりサッカーを始めるが、ケガにより早期挫折。高校時代より指導者の道へ。日本で街クラブ、部活、名古屋グランパスで幼稚園~大学生まで幅広く指導者として関わり多くを学んだ後、海外へ。東南アジアのトライアジアプノンペンFC(現カンボジアンタイガーFC)やラオス代表で研修した後、ブラジル挑戦。
ブラジル一部リーグのアトレチコ・パラナエンセ→SCコリンチャンス→Avai FCの下部組織にてアシスタントコーチを歴任。ライター、代理人業も広く行っている。

お問い合わせは 公式Twitter @HenzanRyota

【特集】ペルーリーグ奮闘記。平識善昭の挑戦。~ペルーで経験した外国人いじめ~情熱物語

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平識選手

小学生の時に初めてペルーに渡り、ペルーの日系人のサッカー大会に夏休みの旅行で参加。その大会で優勝して優秀選手に選ばれ、逆輸入の様な形でペルー日系人と東京選抜との国際試合に出場した平識善昭。現在はペルーリーグ1部、シエンシアーノで活躍している。複数回に分けて平識のペルーでの活躍や経験についてを紹介していく。今回インタビューアーはブラジル、コリンチャンスなどで指導者の経験を持つ平安山良太が務める。

~ペルーで経験した外国人いじめ~

 

平安山 :本格的にペルー挑戦してからはどうでしょう?確かペルーでの最初のチームはシエンシアーノでは無かったはずです。

 

平識 :伊勢崎商業高校を卒業して、そのままペルーに渡りました。最初のチームは首都リマのウニベルシタリオというチームでした。ウニベルシタリオの下部組織でやってて、首都リマの王者を決める大会の決勝戦で直接FKの決勝点あげたりして活躍出来た事もあって、TOPチームに呼ばれました。でもこっちのチームでは他所から来た日本人にチームの枠をあげたくないという気持ちが見え見えの選手もいて、陰湿な嫌がらせも受けました。スパイク隠されたり、ユニホームが切り刻まれてたり、いつの間にか物が無くなるなんて事もありました。僕も少しやんちゃな時期もあった人間なので、イライラも溜まっていったんですけど、ここで殴ったら俺が終わるなと。ここはペルーなので、ペルー人側の方が人数も多いし、僕が悪者にされるだろうなと。クラブを去る事になるのは俺の方になると思いました。この状況はプレーで変えてやるという強い気持ちでやりました。結果ですね。

 

平安山 :成功する人は、その過程で嫉妬は受けると思います。口で言う正当そうな理由と、心の奥底で思っている、自分でも認めたくない本当の理由は別だったりします。

 

平識 :ペルー来た最初はそんな状況だったんですけど、FK決めたりとか、プレーの結果が出てくると、チームメイトの態度にも変化が出てきました。海外でやるのには、結果って凄く大切なんだと思います。

 

明日は平識 善昭がペルーで経験した「~契約満了から挫折、復活まで~」を掲載致します。

第1話 ペルーリーグ奮闘記。平識善昭の挑戦。海外で挫折を乗り越え開花した秘訣とは?情熱物語

 

~平識 善昭プロフィール~
埼玉県出身 伊勢崎商業高校卒
藤岡キッカーズや伊勢崎商業高校でプレーした後、南米ペルーへ。日本でのプロ経験はない。ウニベルシタリオ→シエンシアーノと活躍し、ドリームマッチ群馬2015に出場予定。2016年からはブラジル挑戦を表明している。

~筆者・平安山良太プロフィール~
1990年5月21日生 沖縄出身 中京大卒
小学生よりサッカーを始めるが、ケガにより早期挫折。高校時代より指導者の道へ。日本で街クラブ、部活、名古屋グランパスで幼稚園~大学生まで幅広く指導者として関わり多くを学んだ後、海外へ。東南アジアのトライアジアプノンペンFC(現カンボジアンタイガーFC)やラオス代表で研修した後、ブラジル挑戦。
ブラジル一部リーグのアトレチコ・パラナエンセ→SCコリンチャンス→Avai FCの下部組織にてアシスタントコーチを歴任。ライター、代理人業も広く行っている。

お問い合わせは 公式Twitter @HenzanRyota

ブラジルの強豪コリンチャンス下部組織で指導経験を持つ平安山氏が語る ブラジルの育成世代

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コリンチャンスで指導する平安山良太氏

ブラジルの強豪クラブコリンチャンスやアヴァイなどの下部組織での指導経験を持つ平安山良太氏。そんな平安山氏にブラジルの育成世代の環境や、指導方法についてを聞いた。

コリンチャンスやアヴァイで指導して、日本との大きな違いはありましたか?
平安山氏:まず日本と大きく違うのは、ブラジルでは年上だからえらいということはありません。 子どもたちに指導していてもしっかりと自分たちの意見もぶつけてきますし、こっちがえらそうな態度で考えを押し付けようとすると、「じゃあお前のプレーを見せろ」となりますね。
12歳以下の選手たちはとにかく褒めて伸ばすことが多いですね。日本では子どもたちにけっこうきつく指導していますよね。怒鳴ると叱るの区別がつかない指導者が日本では多いと思います。

 

やはり幼少期から選手の個の力を伸ばすトレーニングが多い?
平安山氏:フォーメーションやそういった類のものは、14歳ぐらいから本格的に教えていくチームが 多いですね。それまではチャレンジ&カヴァー指導ぐらいですね。それよりも個々の力を伸ばしてあげています。
日本ではほとんどの選手が同じような教育を受けていて、ボールを持ったら周りを見てパスを選択するようになってしまいます。でもこっちでは選手の個の能力をしっかり見てあげているから、ボールを持ったらまずはドリブルを選択する選手、ボールを持ったらシュートコースを探す選手と、様々な選択肢を持った選手がたくさんいます。

 

日本の選手は国際経験が少ないと言われますが、平安山氏はどう見ている?
平安山氏:コリンチャンスの下部組織では、14歳ぐらいまではそこまで勝利にこだわっていません。それよりも自分の特徴を見出したり、個の自信をつけることが目標になっています。本当に勝ちにこだわりだすのは15歳から。この世代からは絶対に勝たなければいけないというプレッシャーを背負いながら戦い始めます。また国際経験でいうと、コリンチャンスの下部組織は月に1度のペースで他国の大会に参加したりします。それは選手にとって大きいかもしれません。
 

 

そういったことがプレッシャーに強い選手や、自分のプレーに自信を持っている選手を多く輩出する要因につながっている?
平安山氏:13歳でチームと契約する選手もいますし、やっぱり日本とは感じるプレッシャーが違うかもしれません。ブラジルには、ファベーラというスラム街、貧民街があります。そこの選手たちは家族の生活を背負って、コリンチャンスのようなビッグクラブのテストを受けに来ます。また今強化部もファベーラから良い選手を探そうという風潮があります。仮説ではありますがファベーラの選手たちは、危険と隣り合わせに生活している人々が多いということもあり、視野が広いとも言われています。

 

最後にブラジルで注目されている育成年代の選手はいますか?
平安山氏;コリンチャンスのU-17所属の日系人ファブリシオ・オオヤですね。フットサル、ビーチサッカーの日本代表にも選出されている比嘉リカルド選手の従兄弟です。すでにトップチームの練習にも参加経験を持っていますし、9月にはトップチームと契約しています。もう一つ下のカテゴリーでは、ブラジル全国大会でMVPに選出されています。

平安山良太氏 平安山良太氏

【次回】ワールドカップ以降のブラジル国内でのサッカー熱

 「沖縄にもっとサッカーを普及させたい」ブラジルのクラブで経験を積む平安山良太氏

 

〜平安山良太プロフィール〜
小学生よりサッカーを始めるが、ケガにより早期挫折。高校時代より指導者の道へ。日本で街クラブ、部活、Jクラブで幼稚園~大学生まで幅広く指導者として関わり多くを学んだ後、海外へ。東南アジアのトライアジアプノンペンFC(現カンボジアンタイガーFC)やラオス代表で研修の後、ブラジルへ。
ブラジル一部リーグのアトレチコ・パラナエンセ→SCコリンチャンス→Avai FCの下部組織にてアシスタントコーチを歴任。ライター、代理人業も広く行っている。

 

(取材・文:澤田悠樹)

 

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