(写真:world Football Connection近江孝之さん)
草津東高校在学中に、3年連続全国高校サッカー選手権大会に出場。
第79回全国高等学校サッカー選手権大会では、大久保嘉人選手率いる国見高校と決勝で対戦し、準優勝。同大会の優秀選手に選出され、ヨーロッパ遠征に参加した。
近畿大学進学後も主将を務めるなど、日本での近江孝行の実績は輝かしいものだった。
しかし、大学卒業後は一転ドイツに活躍の場を求め、ドイツの2チームでプレーした後、ニュージーランドへ渡り2部リーグの最優秀選手に。
その後もニュージーランドの名門オークランド・シティFC、オーストラリアのシドニー・オリンピックFCで活躍し、現役最後の地としてインドを選んだ。
2012年の引退後は「World Football Connection 株式会社」を設立し、現在はドイツを中心に日本人選手の海外での生活のサポートをしている。
そんな股旅フットボーラーである近江さんの目に「世界」はどう映ったのか。ヨーロッパで最も裕福な都市の1つ、フランクフルトにて話しを聞いた。
-まず、現役生活にピリオドを打たれたということでお疲れさまでした。実績を見る限りでは、日本でプロを目指すという選択肢もあったと思うのですが、海外でプレーするということはいつ頃から考えていたのですか?
近江:ありがとうございます。今は会社の業務で現役時代より忙しい気がしますが。(笑)
日本でプレーするという選択はありませんでした。高校時に2度、ドイツ、オランダ、スイスとヨーロッパ遠征に参加させてもらったんです。
最初の遠征時に、サッカー面だけでなく文化面も含め、短い期間でしたが刺激的な日々を過ごすことができました。漠然とですが、海外で生活してみたいなと思うようになりました。
2度目の遠征時にその思いは強くなり、本当は高校卒業後すぐにでも海外に渡りたかったのですが、親と話し合い『大学は出て欲しい』ということで大学に通いました。
卒業後は、知り合いのツテをたどりドイツに渡り、無事入団を果たすことができました。
-現役を退くキッカケは何だったんですか?
近江:元々30歳をメドに、と考えていました。サッカー選手として『誰にも負けたくない』と思う反面、冷静に自分の実力を分析してみると、3流止まりで2流にもいけないレベルでした。
現実を受け止めないといけない、と思いニュージーランドでは選手としてプレーしながらドイツで活躍したウィントン・ルーファー氏のサッカースクールで働いたり、オーストラリアではサッカースクールを立ち上げ、子供達に指導したりしているうちにビジネスに対する興味が出てきたんです。4ヵ国でプレーした経験を活かして何かできないか、と。
-プレーされた4カ国の特徴をそれぞれどう捉えてらっしゃいますか?
近江:ドイツでは、始めての海外生活だったので戸惑いが多かったですね。特にメンタル面は苦労しました。
日本人は自分の意見や感情をあまり表に出さない国民性ですが、ドイツ人は監督とも対等に話します。言葉の問題もあり、コミュニケーションも大変でした。
練習場やスタジアムなどの施設は、下部リーグでも非常に充実していましたね。給与面は生活ギリギリ、といった感じでした。
ドイツは9部リーグまであるので50代の人も気軽にプレーできる環境があります。試合中は真剣にぶつかり合い、試合終了後はビールで乾杯、といった具合で心の底からサッカーを愛している人が多くて、羨ましいと思いましたね。
-残りの国も教えていただけますか?
近江:オーストラリアとニュージーランドは似ている部分が多かったです。サッカーのレベルも予想以上に高く、練習場のグラウンドも芝ばかりでした。
収入面も、ニュージーランドではバイトをしながらの生活でしたが、オーストラリアではある程度選手としてのキャリアを積んでいたので給与面も悪くなかったです。
インドは、いろいろな意味で衝撃を受けました。遠征でホテルに宿泊した際は、ホテルと呼べるのかも怪しい場所ばかりでしたね。(笑)
私が所属していたのがムンバイのチームだったんですが、ファンが熱狂的で、試合中の盛り上がりはすごい、の一言です。
サッカー自体のレベルは高くなく、3人まで出場できる外国人の出来が勝敗を左右することが多かったです。その分負けた時の外国人に対してのパッシングは非常に激しいものがあります。
クラブ運営に関しては、私が所属したチームは短期的なビジョンしか持っていなく、シーズン途中で外国人選手が突然帰国したり、といったケースも珍しくなかったです。
給与面に関しては恵まれていましたが。