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【インタビュー】世界を渡り歩いたフットボーラー近江孝行が見たドイツでの日本人選手像とは。

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写真:world Football Connection近江孝之さん)

草津東高校在学中に、3年連続全国高校サッカー選手権大会に出場。
第79回全国高等学校サッカー選手権大会では、大久保嘉人選手率いる国見高校と決勝で対戦し、準優勝。同大会の優秀選手に選出され、ヨーロッパ遠征に参加した。
近畿大学進学後も主将を務めるなど、日本での近江孝行の実績は輝かしいものだった。
しかし、大学卒業後は一転ドイツに活躍の場を求め、ドイツの2チームでプレーした後、ニュージーランドへ渡り2部リーグの最優秀選手に。
その後もニュージーランドの名門オークランド・シティFC、オーストラリアのシドニー・オリンピックFCで活躍し、現役最後の地としてインドを選んだ。
2012年の引退後は「World Football Connection 株式会社」を設立し、現在はドイツを中心に日本人選手の海外での生活のサポートをしている。
そんな股旅フットボーラーである近江さんの目に「世界」はどう映ったのか。ヨーロッパで最も裕福な都市の1つ、フランクフルトにて話しを聞いた。

-まず、現役生活にピリオドを打たれたということでお疲れさまでした。実績を見る限りでは、日本でプロを目指すという選択肢もあったと思うのですが、海外でプレーするということはいつ頃から考えていたのですか?

近江:ありがとうございます。今は会社の業務で現役時代より忙しい気がしますが。(笑)
日本でプレーするという選択はありませんでした。高校時に2度、ドイツ、オランダ、スイスとヨーロッパ遠征に参加させてもらったんです。
最初の遠征時に、サッカー面だけでなく文化面も含め、短い期間でしたが刺激的な日々を過ごすことができました。漠然とですが、海外で生活してみたいなと思うようになりました。
2度目の遠征時にその思いは強くなり、本当は高校卒業後すぐにでも海外に渡りたかったのですが、親と話し合い『大学は出て欲しい』ということで大学に通いました。
卒業後は、知り合いのツテをたどりドイツに渡り、無事入団を果たすことができました。

 

-現役を退くキッカケは何だったんですか?

近江:元々30歳をメドに、と考えていました。サッカー選手として『誰にも負けたくない』と思う反面、冷静に自分の実力を分析してみると、3流止まりで2流にもいけないレベルでした。
現実を受け止めないといけない、と思いニュージーランドでは選手としてプレーしながらドイツで活躍したウィントン・ルーファー氏のサッカースクールで働いたり、オーストラリアではサッカースクールを立ち上げ、子供達に指導したりしているうちにビジネスに対する興味が出てきたんです。4ヵ国でプレーした経験を活かして何かできないか、と。

 

-プレーされた4カ国の特徴をそれぞれどう捉えてらっしゃいますか?

近江:ドイツでは、始めての海外生活だったので戸惑いが多かったですね。特にメンタル面は苦労しました。
日本人は自分の意見や感情をあまり表に出さない国民性ですが、ドイツ人は監督とも対等に話します。言葉の問題もあり、コミュニケーションも大変でした。
練習場やスタジアムなどの施設は、下部リーグでも非常に充実していましたね。給与面は生活ギリギリ、といった感じでした。
ドイツは9部リーグまであるので50代の人も気軽にプレーできる環境があります。試合中は真剣にぶつかり合い、試合終了後はビールで乾杯、といった具合で心の底からサッカーを愛している人が多くて、羨ましいと思いましたね。

 

-残りの国も教えていただけますか?

近江:オーストラリアとニュージーランドは似ている部分が多かったです。サッカーのレベルも予想以上に高く、練習場のグラウンドも芝ばかりでした。
収入面も、ニュージーランドではバイトをしながらの生活でしたが、オーストラリアではある程度選手としてのキャリアを積んでいたので給与面も悪くなかったです。
インドは、いろいろな意味で衝撃を受けました。遠征でホテルに宿泊した際は、ホテルと呼べるのかも怪しい場所ばかりでしたね。(笑)
私が所属していたのがムンバイのチームだったんですが、ファンが熱狂的で、試合中の盛り上がりはすごい、の一言です。
サッカー自体のレベルは高くなく、3人まで出場できる外国人の出来が勝敗を左右することが多かったです。その分負けた時の外国人に対してのパッシングは非常に激しいものがあります。
クラブ運営に関しては、私が所属したチームは短期的なビジョンしか持っていなく、シーズン途中で外国人選手が突然帰国したり、といったケースも珍しくなかったです。
給与面に関しては恵まれていましたが。

 

 【次ページ】今ドイツでは、日本人だというだけで関心が集まる


【インタビュー】日本人初Aリーガープレーヤー今矢直城の流儀。

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写真:日本人初Aリーガープレーヤー今矢直城さん)

公式戦出場記録0。日本での今矢直城のフットボーラーとしての経歴書だ。しかし、海外での実績は目を向けるとその経歴は一転する。
10歳の時に移り住んだオーストラリアで、日本人選手として初のAリーグプレーヤーとなり、3度のリーグ優勝とベストイレブンに選出。
その後、スイス1部リーグでプレーした初の日本人選手となり、UEFAカップに出場。(呼称は当時)再びオーストラリアに戻り、ニュージーランドでのプレーを経て、ドイツで現役生活を終えた。
引退後は30歳で『株式会社Naocastle』を設立し、現在は通訳として活躍する傍ら、英語とサッカーやフットサルを同時に学べるサッカースクールを主催し、自身の経験を子供達に還元している。
2010年からは、早稲田ユナイテッドの監督に就任。当時2部だったチームを東京都社会人サッカーリーグ1部に昇格させた。4ヶ国、11チームを外国人助っ人として渡り歩いた今矢が感じたサッカー感に迫った。

-日本でのプレー経験がなく、海外でプロ契約を結ぶというケースは当時非常に珍しかったと思います。リーグベストイレブン、毎年10を超えるアシストと、オーストラリアで結果を残せた理由をどう考えていますか。

当時は海外でプレーする日本人選手の絶対数自体が少なく、日本人と言うと”中田”と”小野”だけだろ、とどこの国でも見下されていました。オーストラリアは移民が多い国で、比較的日本人に対する理解はありましたが、セレクションとなると合格者の大半が地元の選手で、大きな壁はありました。その壁を取り払うことをモチベーションに、必死に練習に取り組んだことが理由の1つですね。あとオーストラリアでは選手、監督共に密なコミュニケーションが可能でした。結果、監督が自由にプレーさせてくれ、信頼関係が構築できたので試合に使い続けてくれたと思います。本当に紙一重の部分ですが、コミュニケーションを高いレベルで日常的にとれたこと、に加え運も味方しれくれたと思っています。

 

-オーストラリアでの活躍が認められ、夢であったヨーロッパリーグ(スイス、ドイツ)でのプロ契約を勝ち取っています。当時を振り返ってみていかがですか?

スイスはフランス語圏の国で、英語を話せるチームメイトもいましたが、基本的にはフランス語が理解できないと、話にならない環境でした。チームメイトとのコミュニケーション1つとっても、選手から監督に不満の声が出ると、監督は立場的に既存のチームメイトの味方とならざる負えないです。英語が話せれば何とかなる、と考えていた自分の認識の甘さを痛感しました。語学に慣れてくると、今度はプレス速度というプレッシャーの問題に悩まされました。ボランチでプレーしていたので、1つ1つのプレーにミスが許されない。今振り返ってみると、語学の問題もさておき自分の実力不足と、ベストコンデイションを保つことができなかった調整不足も響きました。

 

-スイス時代の2003~2004年シーズン、ヌシャテルザマックスでUEFAカップに出場していますが。

サッカー選手として、あの舞台に立てたことは後の自分の財産になりました。当時のAJオセールには、メクセス(現ACミラノ)カルー(引退)シセ(現クバン・クラスノダール)など各国の代表クラスが揃った強豪でした。試合中にベンチから自分が出ればこうしたい、ここがボールの取りどころかな、相手の左サイドが弱いな、とプレーするイメージを持ちながら分析していました。後半残り15分頃からの出場だったんですが、イメージ通りで読みは当たっていたんですが、実際に対面するとフェイントの切り返しや、パスの角度が予想より一歩深い。オフ・ザ・ボールの質、ボールの置き方、スピード、個人能力にすべてに差がありました。しかし、絶望的な差ではなく当時23歳だった自分にとって、プレーヤーとしての目標が明確になりました。

 

【次ページ】海外での給与や環境面は申し分なかった

【コラム】W杯初出場を決めたボスニア・ヘルツェゴビナとあるセルビア人の1日

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 写真提供:セルヒオ・カシチェビッチ
( 写真提供・セルヒオ・カシチェビッチ

2013年10月15日は、ボスニア人だけでなく、セルビア人にとっても忘れられない1日となった。ユーゴスラビアからの独立宣言から21年。“旧ユーゴ圏で最も帰属意識が薄い国”と評された、クロアチア人、セルビア人、ボスニア人の3民族から形成される連邦国家ボスニア・ヘルツェゴビナは、ヴェダド・イビシェビッチのゴールで敵地でリトアニアを1対0で下し、独立後初となるFIFAブラジルワールドカップ本大会への出場を決めた。

セルビアのスポーツ専門チャンネル『Arena sport』は、ピッチ上で喜びを爆発させるボスニア代表の面々を映しだした。同時に、2011年にFIFAとUEFAから資格停止処分を解除するためボスニア・ヘルツェゴビナサッカー協会の「正常化委員会委員長」に就任するなど、祖国のため献身を尽くしたイビチャ・オシムの涙をセルビア中に配信した。

ボスニア・ヘルツェゴビナが歴史的快挙を達成した同時刻。セルビアの首都ベオグラードに本拠地を置く、FKレッドスター・ベオグラードのホームスタジアム「スタディオン・ツルヴェナ・ズヴェズダ」からすぐの近くのスポーツBarには、セルビア代表ユニホームに袖を通した20人を超えるレッドスターサポーター達が集まっていた。

熱狂的なレッドスターファンである、セルヒオ・カシチェビッチ(26歳、弁護士)は隣国の躍進を好意的に受け止めていた。「スポーツの世界に政治的思想を持ち込むことはナンセンスと、歴史上の先人達が常々言ってきたことだ。元々1つの国の代表チームが、ワールドカップ出場を決めた。ましてや、ボシュニアク(ボスニア)にはセルビア人も半数近く住んでいる。喜ばない理由があるかい??」

また、ササ・ペシニッチ(26歳、サプリメント会社経営)は「今年のワールドカップ予選でも、セルビアで行われた試合ではクロアチア代表のサポーターは試合会場で応援することが許されなかったんだ。残念ながら、私達の国々ではまだまだ未解決の問題が残っている。今回のボシュニアクのワールドカップ出場が、民族間の隔たりを少しでも良い方向に導くためにキッカケとなればいいと願っている。そのためには、私達若い世代から世の中に訴えていく必要があるんだ」

セルヒオ・カシチェビッチは、セルビア代表チームについても言及した。「今のボシュニアクは攻撃陣にタレントを抱えている。セルビアは強固な守備陣が魅力だ。もし2つの国が1つなら・・・時々そんなことを考えるよ。ユーゴ圏の国は、個人個人の能力なら世界でも有数のものだ。ワールドカップや、国際大会でも優勝してもおかしくないレベルだと思うよ。でも、歴史を振り返ってみると自国のために戦うという民族意識が希薄だった。相次ぐ戦争で、正しい民族意識を持つことができなかった、と言ったほうが正しいかもしれない。だから勝者のメンタリティを持つことができなかたんだ。でも、今の若い世代の国民の意識は少しずつだけど変わりつつある。誰に何を言われようと、ワールドカップ本大会ではボシュニアクを応援するよ」

本大会では、ボスニア・ヘルツェゴビナは、アルゼンチン、イラン、ナイジェリア と同居するF組に入った。FIFAランキング3位のアルゼンチンを除けば、19位のボスニア・ヘルツェゴビナ、33位のイラン、37位のナイジェルアと混戦模様だ。(FIFAランクは2013年12月現在)。だが、エディン・ジェコ、ヴェダド・イビシェヴィッチ、ミラレム・ピャニッチら強力アタッカー陣に加え、3つの民族が団結し初のワールドカップ出場を決め、組織力が向上した現代表にとって、予選突破は決して夢物語ではないだろう。

根強く残る民族紛争の歴史は消えることはなく、異なる民族のサポーターが団結することは難しいと言わざるを得ない。しかし、“ワールドカップ初出場でベスト16出場”という吉報をブラジルの地から待ち望むセルビア国民は、決して少数派ではないのかもしれない。

(取材・文 栗田シメイ:Twiteer@Simei0829

 

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日本人初!ブラジルリーグ10代GK磯部和彦の軌跡。

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湘南ベルマーレを退団後、新天地をブラジルに求めた1人の日本人GKがいる。2013年にブラジル・サンパウロ州に本拠地を置く、CAタボン・ダ・セーハ(セリエB所属)とプロ契約を結んだ磯部和彦である。(現在はCAジュベントス『セリエA3所属』にレンタル移籍中。)10代の日本人GKが、プロ選手としてブラジルリーグのピッチに立ったのは初めてのことである。

磯部は京都府出身の19歳。東京ヴェルディジュニアから、選手としてのキャリアをスタートさせる。ヴェルデイ時代の同期には、今年1月に行われたAFC U-22アジアカップに背番号10を背負って出場し、3得点を記録した中島翔哉
らがいる。その後14歳で湘南ベルマーレユースに籍を移し18歳まで過ごすが、チームからプロ契約のオファーを受けることはなかった。

チームを退団後、母校のグラウンドや社会人チームの練習に飛び入り参加するなど、満足な練習環境さえ得られなかった磯部は、知り合いの紹介を辿りブラジルに渡ることを決意する。2度目のブラジル渡航となった、2013年5月。セレクションでのプレーがタボン・ダ・セーハのフロント陣の目に留まり、幼少期からの念願であったプロサッカー選手となった。

デビュー戦となった7月20日のサンパウロ州カップ戦、対イタぺヴィ戦では相手攻撃陣の攻撃をシャットアウトし、チームの1対0の勝利に貢献。22日、24日のカップ戦でもクリーンシートを記録し、上々のブラジルデビューを飾った。しかし、リーグ戦では選手登録が間に合わず、登録期間を待つ間にチームは敗退し、シーズン終了。オフ期間中には、より上のカテゴリーのチームへの売り込みに奔走するが、人生初となる大きな病に侵され、1ヶ月間の“絶対安静”宣告を受ける。その後体調は無事回復したが、本人曰く「激動だった」というブラジルでの1年目は幕を閉じた。

年が明けた2014年。磯部は自身が望んだ「より上のカテゴリー」のチームCAジュベントスへのレンタル移籍を果たした。CAジュベントスはサンパウロ州に本拠地を置く、かつて三浦知良や浦和レッズダイヤモンドで活躍したポンテの他、元セレソンDFのルイゾンも所属した、今年創設90年目を迎えた古豪チームだ。「今年の目標はリーグ戦に出場すること。先の目標としては、ブラジル開催されるリオ五輪の日本代表に選ばれることです。選手としてプレーできない時期もありましたし、ブラジルでの生活も戸惑うことばかりです。しかし、若い内に苦労を経験できていることは必ずプラスになると思ってます。今は少しずつ階段を登っていけている、という手応えがあります」と磯辺は語る。

今後は、2月3日にスタートしたサンパウロ州選手権より、ジュベントスでのデビューを目指す。ジュベントスで正GKを争うのは、前コリンチャンス所属、前グレミオ所属と、ブラジル国内でも有数のビッククラブでの
経験値の持つ2選手となり、磯部には熾烈なポジション争いが待っている。ブラジルでの愛称である「カズ」を、より一層聞く機会が増えるような活躍を期待したい。

磯部和彦:経歴集
2005年-東京ヴェルディジュニア
2007年-東京ヴェルディJr.ユース
2009年-湘南ベルマーレU-15
2010-湘南ベルマーレユース
2012年 -湘南ベルマーレ ※2種登録
2013年- CAタボン・ダ・セーハ(ブラジル)
2014年-CAジュベントス(ブラジル)

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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アルゼンチン奮闘記 小林徹、飯沼直樹のケース

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写真:小林徹さん)

都内の高校を卒業後、アルゼンチンに飛び出した小林徹は練習生を経て、20歳で念願であったプロ契約をCAヌエバ・チカゴと結んだ。しかし、小林がプロとして過ごせた時間はごくわずかであった。日本に一時帰国し、再びアルゼンチンに戻った際の空港で解雇を告げられる。この時生まれて人前で泣いたという小林は、人目をはばかる余裕もなく、溢れ出る涙をしばらく止めることができなかった。こうして、再び練習生としてアルゼンチンでプロを目指す日々が始まった。

小林と始めて会ったのは、少し肌寒さを感じる2013年4月のブエノスアイレスでのことだ。当時バラカス・セントラルの練習生として過ごしていた小林は、1か月後にトップチームに昇格できるか、否かのデリケートな時期に差し掛かったいた。

海外で活躍する選手の条件として、語学力と強固なメンタリティが挙げられるとすれば、小林は双方を兼ね備えていると言える。ある日、ブエノスアイレス市内にいた小林の前に、日本語を話しす夫婦が歩いていた。アルゼンチンに来たばかりで語学の問題に頭を悩ませていた小林は、見ず知らずの夫婦に「スペイン語を教えて下さい」と頼み込んだ。今では週5日間、その時の夫婦がスペイン語の教師となってくれている。

「自分で言うのは抵抗があるんですが、いろんな人からメンタルが強すぎると言われるんです。アルゼンチンに来てから、今まで辛い思い出しかないんですが、今は手応えしかない。自信もつきました。監督から良い評価も受けていると思います」

では、アルゼンチンでのプレー環境をどう捉えているのか。「芝が深く、走るスピードが出にくいです。自分はスピードで勝負するタイプの選手なので、芝に足をとられたり、ボールが止まってしまうので当初は苦労しました。ただそんな環境で練習するので、スピードやドリブルでは、代表クラスの選手にも負けないという自信がつきました。何より、日本にいた時よりサッカーを楽しめています」

自身で1ヶ月後に再びプロ契約を結べると思うか?と尋ねてみた。「現状では五分五分かと。ただ昔から、どんな形でも点は常にとってきました。ゴールが好きなんです。だからゴールという結果を出して、何としてもアルゼンチンでプロ選手という履歴書を手に入れて、ヨーロッパに行きたいんです。最終的にはJリーグでプレーできれば・・・そう思っています」

■経歴集
小林徹
アルヘンティノス・ジュニアーズ(練習生)⇒CAヌエバ・チカゴ(練習生→プロ契約)⇒バラカス・セントラル(練習生)

 

 【次ページ】安定した生活した生活を捨て、アルゼンチンに渡った飯沼直樹

【コラム】京都バドゥ新監督が目指すサッカーに潜む危険

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鹿児島ユナイテッドvs京都サンガ
写真:京都サンガvs鹿児島ユナイテッド)

J2京都サンガFCは、キャンプ地鹿児島県国分運動公園で2月14日と15日に練習試合を行った。14日はJFLの鹿児島ユナイテッドと、15日は韓国KリーグのFCソウルとそれぞれ対戦している。2014年シーズンから京都は、バドゥ新監督が指揮を執る。新指揮官が目指す『攻撃サッカー』には、危険が伴っていた。

バドゥ監督は就任会見で「オフェンシブなサッカーをやっていきたい」と話したように、鹿児島ユナイテッド戦では、序盤から積極的な攻撃を見せた。相手がボールをキープしたところに素早くプレスをかけ、自チームのボールになると一気に攻撃を仕掛けていく。両サイドのポジションは高く、それに連なりサイドバックも積極的な上がりを見せる。この試合では宮吉が2ゴールを決めて、勝利を収めたもののディフェンス面に課題が出る形となった。

昨年まで京都はパスサッカー展開してきた。ディフェンスラインでボールを奪うと細かいパスを繋ぎ、自チームの攻撃につなげていた。しかし今年の京都は少し違う。ディフェンスラインでボールを奪うとセンターバックであっても、積極的な上がりを見せ、両サイドのスペースを有効に使うサッカーを見せる。しかしこの場面でサイドバックが中を絞る動きを見せるのだが、ボールを失った際のリスクが高い。鹿児島ユナイテッドの攻撃陣は、京都のディフェンスの間のスペースをうまく利用し、何度もゴールを脅かしていた。

攻撃の部分での連携や戦術理解は、進んでいるように見えるが、守備に関してはまだこれからというように思えた。また15日の練習試合では1試合目のメンバーから外れたFCソウルの選手たちが、京都のウィークポイントを指摘していた。

FCソウルとの試合で京都は、MF中山博貴とMF伊藤優汰が中心となってボールを回した。宮吉の飛び出しにうまくボール合わせようとするが、なかなか良い形でボールが入らなかった。これを見たFCソウルの選手たちは「13番(宮吉拓実)は何度もチャレンジしているが、あの形は簡単すぎる。15番(中山博貴)は何度もスペースを探しているのが見えるが、ボールを持っている時間が長いから、対応しやすい」と話していた。

京都の攻撃サッカーのウィークポイントは出たが、良いところはないのか?FCソウルの選手たちに聞くと「25番(伊藤優汰)のドリブルはグレート、8番(MF横谷繁)のフィジカルも強い」と話してくれた。

5年振りのJ1昇格を目指す京都にとってこの時期に、修正点が出たのは非常に大きい。3月2日の開幕までにまだ十分な時間はある。昨年まで続けてきたパスサッカーに加え、バドゥ監督が目指す攻撃サッカーを加えることができた時、J1昇格の夢が近づく。

最後に2月14日と15日の練習試合で、京都には練習生が参加していた。練習生は京都のサッカーに良いアクセントを加えていた。高い身長を活かしポストプレーなどでチームに大きく貢献していた。練習生が京都に新加入することになれば大きな力になりそうだ。

 

(文・澤田ゆうき)

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【インタビュー】「サッカーで世界を一本の線に」稲若健志

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パルメイラス役員と稲若健志さん
写真:パルメイラス役員と稲若健志さん)

マラドーナに憧れて海を渡った稲若健志は、一発勝負の入団テストで4得点を記録しアルゼンチンでプロ契約を勝ち取った。その後は、日本とアルゼンチンで活躍し、栃木SC在籍時に27歳で株式会社ワカタケを設立。2009年後の引退後は、アルゼンチンへの日本人選手の留学斡旋業、スポーツクラブのクラブマネージャー、スポーツスクールの運営、スペイン語の通訳、選手のマネジメント業務をこなし、セカンドキャリアを築いている。近年ではアルゼンチンだけではなく、レアル・マドリードのファンデーションキャンプの通訳を務めるなど、スペインとの関係性も強め、中国、ドバイといったアジアや中東のサッカー新興国との親交も深めている。そんな稲若が目指しているのは、「世界を一本の線で繋ぐこと」という。アルゼンチンや選手時代の話しを交えながら、稲若の描くビジョンに迫った。

 

-高校卒業後すぐにアルゼンチンに渡ったということですが、アルゼンチンで選手として感じたのはどういった部分ですか?
稲若健志(以下、稲若):サッカーに対する目線が非常に肥えていると感じました。だから、ファンから受ける試合中のプレッシャーが全然違いましたね。プレー面では、マリーシアのレベル。1つ1つのプレーの駆け引きの上手さ、最初の1歩の予測のスピードが目につきました。球際が厳しいので、自然とケガも多くなります。帰国後日本のクラブでプレーしたんですが、練習の激しさの差には戸惑いました。普通にチャージしたつもりが、キャプテンを吹っ飛ばしてしまったこともありましたね。

 

-選手時代に会社を設立するというのは珍しいケースかと思いますが。
稲若:アルゼンチンで同じ時期にプロだった選手と一緒に、日本からアルゼンチンへの短期留学の斡旋事業からスタートしました。短期で募集を掛けたところ、予想以上に人数が集まって。選手時代のコネクションで、アルゼンチンからプロ選手を招聘し、
監督やスクールの指導をお願いしたりしました。今振り返ってみると、一歩踏み込んで行動できるか、できないかだけの差だけだと思っています。

 

-稲若さんが言う「世界を1本の線で繋ぐ」というのは具体的にどのようなことを指すのでしょうか?
稲若:選手にとって大切なことは、自分にあったチームを選択するということです。言い換えれば『出場機会をもらえるチーム』に所属するということです。日本人は一般的にこの選択ができていないと思います。これは、欧州や南米の選手と比較すると、客観的に自分の実力を図れていない、プロ意識の差に開きがあるからと言えます。背景には、サッカーのテレビ報道の頻度の差や、代理人の数、移籍金の違い、貧富の差などが挙げられます。例えばメキシコは、ビジネスとしてのサッカー構造が上手く成り立っています。今後は日本もサッカーをビジネスとしてより捉えていく必要があると感じているので、南米や欧州の5大リーグだけでなく、アジア、東欧、アフリカ、中東などサッカービジネスで、世界を1つの線をとして結ぶことができればと考えています。

 

-実現には多くの協力者が必要となりそうですね。
稲若:今まで渡航費だけで1000万円以上は投資してきました。その甲斐あって、アルゼンチンとスペインの他、アジアや中東にも協力してくれる方と繋がることができました。残すはアフリカ大陸とオセアニア大陸とのみです。

 

-今後はどのような活動を考えているのですか?
稲若:世界を1つの線で結ぶ、という理念を突き詰めて活動していきたいです。将来的には、FIFAのもう少し密な組織を作り上げたいと思っています。理由としては、日本の子供達に正確な情報をより素早く手に入れ、提供することで、子供達がより世界に出やすい環境を作ってあげたいと考えているからです。個人的には、アジアのマラドーナ総代理人であり、北京サッカー協会会長である唐主席氏と協力して日本にマラドーナを連れてきたいと思っています。アルゼンチンという国のおかげで今の自分があるし、アルゼンチンに渡るキッカケとなったのはマラドーナの存在があったからなので。あとは教育に携わり続けることです。子供達が夢を持って挑戦できるような環境を作るのは、教育だと思っているので、子供達の夢を教育を通じてサポートできる存在でありたいですね。

 

経歴集:
チャカリタ・ジュニアーズ(アルゼンチン)⇒愛媛FC⇒CDリエストラ(アルゼンチン)⇒栃木SC⇒矢板SC
現:株式会社ワカタケ代表取締役
著書に『親子で学ぶアルゼンチンサッカースピリット』(随想舎)

十年後の君たちへ~輝かしい未来へのエール~(3月10日に随想舎より発売)

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http://lines-ent.com/
この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版)に収録されます。

(文・栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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「ブラジルと日本を繋ぐ」通訳としての生き方。栃木SC古川宏人

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栃木SC 古川宏人通訳
写真:右 栃木SC 古川宏人通訳)

ブラジルで選手としてプレーした経験を活かし、現在は栃木SCの通訳として活躍する古川宏人。助っ人選手として来日するブラジル選手が、日本の環境に適応できるか否かという観点の中で、通訳の果たす役割は決して小さくない。2013年シーズン栃木SCに在籍した三都主アレサンドロ(現:FC岐阜)は、「ブラジル人にとっては、何か困ったことがあればいつも傍にいてくれる心から頼りになる存在。皆の為に自然と動けているところは本当に尊敬に値します。」と吉川へ信頼を寄せていた。通訳とは「ブラジル人と日本を繋ぐもの」と話す吉川の考えを聞いた。

 

-始めにブラジルでの選手時代の話しを聞かせて下さい。

古川宏人(以下、古川):ブラジルで過ごした時間は1年半と短いものでしたが、通訳という仕事を含め、現在の私を形成する基盤となる経験を積むことができました。選手としては、プロ契約を結ぶことができたのですが、労働ビザが許可されず、試合に出場するができない日々で非常に悔しい思いをしました。帰国後にサッカー留学を支援する『ポンチノーヴァ』を設立したのは、私と同じようなケースがないよう、また今後同じような犠牲者を出さないためにサポートする環境を作りたいと思ったのがキッカケです。

 

-通訳を志したのはなぜですか?

古川:元々興味があったこともありますが、1番はブラジルとの繋がりを捨てたくなったからです。自分のブラジルでの経験を活かしたいと思いました。私自身もブラジルで言葉の問題に悩まされたので、言葉の重要性は認識しました。その国で活躍するには、文化に適応して、選手がその国に歩み寄ることが大切です。そのキッカケを選手に与えてあげるのが、通訳として大切な仕事だと考えています。

 

-選手とのコミュニケーションの際に気をつけているのはどういった部分ですか?

古川:選手本人の立場になって考えることです。例えばパウリーニョ選手(2011年~2013年まで栃木SCに在籍)の故障中、病院でのリハビリや食事など言葉のケアだけではなく、多くの時間を共有してきました。理解すべきは本人が一番辛いということで、通訳としての立場だけではなく人対人のコミュニケーションを心掛けてきました。だから、パウリーニョ選手がケガ乗り越えて試合に復帰した時は、本当に嬉しかったですね。

 

-プライベートでも選手との付き合いはありますか?

選手や選手の家族と一緒に食事に行くことはありますね。場所は、洋食があるレストランやファミレスが中心です。特にブラジル人に人気なのは、サイゼリア。肉が大好物のブラジル人選手にとって、安くて美味しい肉を食べられる場所は貴重みたいです。

 

-吉川さんから見たブラジル人像とは?

一般的に、ブラジル人は練習の力を抜くと言われています。それは、ブラジルでは練習はダメでも、試合で活躍すればいいという考えが浸透しているからです。しかし、日本では練習でできないことは試合でもできなくて当然という考え方があるので、練習で力を抜くブラジル流では日本で成功できない。だから、来日している栃木SCの選手は練習に取り組む姿勢が違いますね。日本の文化に適応しようとする努力が伝わってきます。チームには4人のブラジル選手がいますが(2013年時)性格や文化に対する適応性などは選手によって個人差があるので、ブラジル人像は一概には言えません。ただ、日本は規律を大切にするから文化があるので、Jリーグを理解すること。理解しようと歩み寄ること。個人的には、この姿勢が日本での成功の近道だと思います。

 

経歴集:
XVカラグアタツバ(ブラジル)⇒横浜FC通訳⇒ポンチノーヴァ取締役⇒栃木SCコーチ兼通訳(ポンチノーヴァより出向中)

ポンチノーヴァサッカースクールHP
http://pnfutsalarea.com/school.html

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829


「欧州と南米の指導方法から日本の育成世代の課題を紐解く」ジェフユナイテッド千葉U-18コーチ永田雅人

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ジェフユナイテッド千葉U-18コーチ永田雅人
写真右:ジェフユナイテッド千葉U-18コーチ永田雅人)

近年、海外を舞台に活躍する日本人選手の数は増加の一途を辿るが、海を渡る指導者の数も増えている。「海外との差を埋めるのは指導者の質の向上も求められる」という議論を耳にする機会は少なくない。今回話しを聞いた永田雅人氏は、大学卒業後ドイツ、イタリアで3年間指導者としてのノウハウを学び、アヤックス、パナシナイコスなどで指揮をとった名将ヘンク・テン・カテの指導法を肌で感じた。

欧州だけなく南米の育成方法にも目を向け、サンパウロではブラジルサッカーに触れ、帰国後は東京ヴェルディジュニア・ジュニアユース、ジェフユナイテッド千葉のコーチとして15年間、育成世代の指導を行ってきた。永田の下で学んだ選手は、東京ヴェルディの高木大輔やカターレ富山の中島翔哉らがいる。現在も日本サッカーの底上げのために、日々注力している永田が見た欧州・南米諸国との日本の差とは。

 

-はじめに、欧州と南米の指導方法で共通していると感じたのはどういった部分ですか?

永田雅人コーチ(以下、永田):南米はユース世代は個人練習に重きを置きますが、欧州では個人があって、グループがあるという考え方ではありません。そのため、ユース世代でも戦術練習を重視します。しかし、指導の着眼点が、”ゲーム性を持って練習を捉えているかどうか”この点に関しては欧州も南米も共通しているように感じました。

 

-それでは大きく異ると感じたのは?

永田:欧州のサッカーは戦術的で、数学的要素が強いと思います。1つ1つのプレーに”なぜ”を追求し、結果を徹底的に分析します。処理能力に長けるという言い方ができるかもしれません。一方で南米では、勝つための逆算したプレーがすべてです。ここに強さの源流があるように感じました。ユース世代では、個人の技術や資質を伸ばすことに最も重点を置き、ボールを使った個人練習が多いです。ここに相手のウラをかくプレーや発想の柔軟性の秘密があるのではないでしょうか。欧州と比べると、有機的なサッカーを学ぶ土台があると思いますね。

 

-南米や欧州の指導方法は日本のユース世代の指導に適応できるのでしょうか?

永田:サッカーに対する文化と歴史が違うので、日本に必要だと個人的に感じているのは、両大陸のメソッドを融合させることです。もちろん、必要なものと不必要なものを見極める必要があるので、指導者の役割は重要です。日本サッカーに1番足りないと感じているのは、局面局面で相手にとって1番怖い選択をするということです。頭と体の柔軟性は違います。高校・大学から感覚を磨くトレーニングをしても遅いので、ジュニア時代から感覚を磨くトレーニングと指導を徹底する必要性を感じていています。

 

-しかし、感覚はトレーニングで磨かれるものでしょうか?

永田:幼少期からの積み重ねによっては、可能だと思います。日本人の特性として、『義務的』に物事を進めることは少なくない。例えば10人いて、6人が違う考え方なら、残りの4人は6人に合わせます。感覚や思考力を鍛えるというのは、こういった部分を指します。昔U-15のメンバーを連れて、イタリア遠征に1週間行ったことがあるのですが、遠征当初は感動した、見方が変わったという抽象的な意見が多かったです。しかし、遠征終了後感想文を提出させた際、各々が具体的な意見を挙げ、質の向上を感じました。思考力も育てることができますし、年齢を重ねると論理的な思考が可能となります。自分の目で見て、経験させてあげることと日々の積み重ねによって感覚は磨かれると思いますね。

 

-日本サッカーのレベルは上がっていると言われていますが、この点に関してはどう捉えていますか?

永田:どこをどう切り取ってレベルの向上と言えるのか。この点に付きますね。欧州や南米が日本より早いスピードで進化を続けています。それでも『レベルは向上した』と呼んでいいものでしょうか。設備や練習環境は日本のほうが上です。しかし、理論を突き詰めて説明するといったサッカーIQに関しては、まだ大きな開きがあると言えるでしょう。例を挙げると、プレミアリーグでファンペルシーが見せるような、横からの高速クロスをダイレクトでゴールに結びつけるというプレーは、発想、パワー、決断力の3つの技術が必要となります。Jリーグでファンペルシーのようなゴールシーンは見る機会はほとんどない。このことが”技術の差”を表していると思います。技術の向上のためには、1つ1つのプレーに対して議論を重ね、実践することが近道ではないでしょうか。

 

経歴集:
読売ヴェルディユース⇒日本体育大学⇒ドイツ留学(ブレーメン)⇒イタリア留学(パルマ)
⇒東京ヴェルディジュニア・ジュニアユース監督・コーチ⇒ジェフユナイテッド千葉U-18コーチ

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(写真提供:ジェフユナイテッド千葉 文・栗田シメイ Twitter:@Simei0829

ジェフユナイテッド千葉U-18コーチ永田雅人

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鹿児島ユナイテッド 徳重代表「鹿児島のサッカーが動き始めた」

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鹿児島ユナイテッドFC徳重剛代表
写真:鹿児島ユナイテッドFC徳重剛代表)

昨年の12月2日に統合が発表され、誕生した鹿児島ユナイテッドFC。鹿児島初のJリーグクラブ誕生を目指すクラブの代表には、FCKAGOSHIMAの徳重剛代表が就任した。今回徳重代表が、新シーズンへの意気込みや、鹿児島サッカーに対する想いなどを語った。

 

-今シーズンからJFLに挑戦となりますが、今の率直な気持ちは?
徳重剛代表(以下、徳重代表):やっと鹿児島のサッカーが動き出すかなという気持ちです。元々私はFC KAGOSHIMAで代表を4年間務めていましたが、鹿児島サッカー教員団の頃から50年以上の歴史を持つヴォルカ鹿児島さんと合流することになり、今までこの2チームに関わってきた色んな人たちの目標であった、Jリーグに向けての第一歩であるJFL昇格を達成出来たので、この勢いでJリーグまで上がっていければなと思います。

 

-2チームから選手が合流しましたが、うまく融合が進んでいる?
徳重代表:2チームでスタメン出場していた選手を中心にチームを構成しているので、強くなっているのは間違いないと感じています。選手同士は知っている選手が多いので、仲良くなるのは早かったですね。

 

-サポーターの反応は?
徳重代表:まだ公式戦を迎えていないので、どういった応援をするのかなどは模索中だと思います。楽しみにしてくれているのはひしひしと感じています。

 

-Jリーグのクラブと練習試合を数試合行っていましたが、何か掴んだものはある?
徳重代表:まだ手探りの状態だなというのは見て取れますけど、初戦よりも2戦目、2戦目よりも次の試合と、良い感じに仕上がってきていると感じます。あとはどれだけクリエイティブにサッカーをするかというところですね。そこは練習でもレベルアップできますし、開幕してからも調整できますのでこれからだと思います。

 

-Jリーグへの道筋も見えてきたと思いますが?
徳重代表:選手たちは頑張って試合に勝って、優勝を目指してもらって、フロントは運営の体制として審査が認められるように頑張るだけです。準備が整い次第、申請は行っていこうと思います。Jリーグさんと話をして不備があれば補っていくようにしていきます。

 

-鹿児島初のJリーグクラブに近づいてきましたね。
徳重代表:本当はJリーグクラブであろうが、JFLであろうが、全国リーグに変わりはないですし、より高いレベルのサッカーをどう作り出すかだけなのですが、ただJリーグのほうが県民の皆様に興味をもってもらえますし、できることが増えると思います。

 

-最後にサポーターへ向けてメッセージをお願いします。
徳重代表:子どもたちがトップレベルの環境を、毎週のように見ることができる環境がやっと整ったと思うので、今後いろんな微調整をしながらクラブを作っていければと考えています。チーム優勝を目指して頑張りますし、できる環境は整ったと思います。あとはフロントとして、安定したクラブ経営ができるように頑張っていきますので、ぜひ会場に足を運んで楽しんでいただければと思います。応援よろしくお願いいたします。

 

(取材・文:澤田ゆうき)

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【コラム】「ボカ・ジュニアーズの小さな案内人」太田ミハエル

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写真:ボンボネーラの太田ミハエル)

南米有数の名門チームであるボカ・ジュニアーズのホームスタジアム「ボンボネーラ」で働く17歳の日本人がいる。東京都で生まれ、日本人の父とペルー人の母を持つ太田ミハエルは、中学卒業を待たずして1人アルゼンチンへ渡った。もちろん当時15歳の少年には、アルゼンチンでの就職先のあても、現地の知り合いも皆無であった。

目鼻立ちのくっきりした容貌は、母方の地を色濃く受け継いでいるように見える。堀の深い顔立ちは一見すると日本人と分からないかもしれないが、ボンボネーラを訪れる日本人の多くが、ミーシャの世話になっている。かく言う私も太田に世話をしてもらった1人だ。

決して治安が良いとは言えないボカ地区の一角に位置するボンボネーラ含め、アルゼンチンでサッカー観戦を行うのは滞在の短い旅行者にとって少しばかりハードルが高い。特にボカのホームゲームでの試合となると、ソシオ(クラブ会員)でないとチケットの購入は高額の料金を支払って、日系の旅行代理店で申し込む以外の選択肢はない。

どうしても週末に開催される、ボカ・ジュニアーズ対ラヌースの試合を観戦したかった私は、チケットの入手方法を模索しながらボンボネーラのスタジアム見学に訪れていた。観客席にある「暴力団」の文字と同時に私の目に映ったのは、スペイン語を流著に操り、世界中から訪れる観光客の接客をする太田の姿だった。

話しを聞けば、太田は現在ホームステイをしながら、週6日間9:30~18:00までスタジアムで働き、夜はアルゼンチンの夜間学校に通っているという。1日にボンボネーラを訪れる平均来客数は700~800人。夜学に通っていることを考えれば、プライベートな時間はごく限られたものとなる。日本にいる友人達は青春真っ只中を過ごしている中、何が太田を突き動かしているのか。「ただ、ボカが好き。それだけなんです。2003年のトヨタカップでテベス リケルメなど、来日したボカの選手み魅了されました。
それ以上にボカの応援団の熱気に夢中になりました。”自分もこんな活気の中に身を置いてみたい”そう考えるようになりました。理由はいたってシンプルですが、僕が尊敬する人達の思考は、みんなシンプルそのものなんですよ」

太田曰く、日本で暮らしている時は、毎日を生きている実感を味わうことができなかったという。「日本の中学校の通っている時は、集団に馴染むことができず不登校になりました。卒業式も出ずに、アルゼンチンに来たので。アルゼンチンに来てから、毎日を生きている実感を日々味わうことができています。それは、アルゼンチンのほうが子供としてではなく、1人の従業員・人間として自分を評価してくれるから。今はいろいろな人に助けてもらっているので、自分も困っている人を助けてあげたいんです。その結果、ボカをアルゼンチンという国を好きになってくれれば、こんなに嬉しいことはないです」

今年でボンボネーラで働き始めて、3年目を迎えた太田ミハエル。そんな太田に”世話になる”日本人は、今後も増え続けることになりそうだ。

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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【インタビュー】アルゼンチンに移り住んだフットボーラー。川匂久明

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写真:川匂久明氏)

「失敗しても、立ち上がって何回チャレンジできるか。それが僕にとっての生きていく価値です。」声の主川匂久明は、サッカー留学生から選手としてのキャリアをスタートし、19歳から21歳までアルゼンチンでプロ選手として過ごした経歴を持つ。引退後は、2011年より首都ブエノスアイレスに移り住みアルゼンチン人女性と結婚。現在は1児の父として、日系の自動車メーカーの下請け会社の管理職として働いている。そんな川匂が見たアルゼンチンとは。選手時代の記憶を中心に話を聞いた。

 

-まず、南米諸国の中でアルゼンチンを選択された理由を教えて下さい。
川匂久明(以下、川匂):15歳の時、ブラジルの国際大会に参加しました。その頃から海外への想いが強くなりました。日本でプロになれなかった際、どうしてもサッカーを諦められなかったんです。それで海外に行こうと。アルゼンチンを選んだのは、私の中でマラドーナの存在が大きかったので。ブラジルにも何度か足を運びましたが、生活、人間、食事すべての面でアルゼンチンのほうが好きですね。

 

-留学生としてキャリアをスタートした上で難しかった部分はありますか?
川匂:チーム合流時、練習の11対11のミニゲームでさえ全く出場できなかったんです。最初にチャンスが与えられたのは、わずか5分。ポジションも今まで体験したことがない、サイドバックでした。理由はただ空いているポジションというだけ。そこから結果を出し、10分、20分と出場時間を伸ばしていくことからのスタートでした。試合に出ても、パスをもらえない。チームメイトの信頼を得る意味でも、練習から激しい競争がありましたね。

 

-プロとして過ごされた中で感じたアルゼンチンサッカーの印象は?
川匂:とにかくプレッシャーのスピードが早い。私はボランチでプレーしていましたが、次のプレーを考える時間がないんです。それに一度ミスをすると試合に使ってくれなくなります。そういう環境の下でプレーしていたので、自然とずる賢いプレー、
デイフェンスの読みが上手くなったと思います。リーグ全体を見ても、各カテゴリーのユース代表クラス経験者が2部や3部のチームにもゴロゴロいました。アルゼンチンのサッカーの歴史と奥深さを実感しましたね。

 

-国としてアルゼンチンの魅力はどういう部分に感じられていますか?
川匂:個人としての価値が、日本より重要視されます。それはサッカーでも同様かと。例えばメッシですが、彼はほとんどのプレーを左足で行いますよね。仮にメッシが日本で生まれていたなら、右足も使えと指導されていたはずです。アルゼンチンでは、選手の持つ長所や個性を伸ばす指導を行います。どちらが正しいかはさておき、評価される部分が全く違うというのは感じました。

 

-引退後、一時日本に戻られていましたが、再度アルゼンチンに移り住まれたのはなぜですか?
川匂:東日本大震災の後、人生の価値についていろいろと考えさせられました。私にとって、人生とはチャレンジです。チャレンジする際の環境として、自分が自分らしく生きていける場所はどこかと考えました。結果思い浮かんだのが、大好きなアルゼンチンのことでした。私にとっては、アルゼンチンのほうが人間らしく生きていける。夢を追うことができる。そう思いました。結局、身も心もアルゼンチンに惹かれてしまったんですね。笑

 

川匂久明:経歴集
矢板中央高等学校-CAウラカン(練習生)-CA・ベレス・サルスフィエルド(プロテスト生)-CA・セントラル・コルドバ(プロ契約)

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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【コラム】「パラグアイで戦う若者たち」 定國智之・交久瀬直人・山中敦史 Part1

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(写真:スポルト・コロンビア)

ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイに次ぐ、南米のサッカー古豪国であるパラグアイ。近年では、2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会で、日本代表初のベスト8進出を阻んだ国として、記憶しているサッカーファンも多いのではないか。しかし、欧州と違い情報収集が難しい南米各国のサッカー情報の中でも、パラグアイのサッカー事情を耳にする機会は少ない。そんなパラグアイ2部リーグで、サッカー留学生として奮闘する3人の若者がいる。熱帯気候の属するパラグアイの中で、比較的過ごしやすい気温が特徴な4月中旬。彼らに会うために「聖母の被昇天」という名前に由来する、首都アスンシオンを訪ねた。

定國智之は大阪府枚方市出身の25歳のFW。桃山学院大学を卒業後、パラグアイの留学斡旋を行うSOCCER PLANET社を介してパラグアイに渡り、現在はアスンシオンのスポルト・コロンビアに所属している。「チームに合流後、チームメイトに『オカマ、オカマ』って呼ばれて、名前なんて呼んでもらえませんでした。こっちに来た当初は、その度にイライラしてましたが、途中から聞き流せるようになりました。それに試合で点を取ってからは、言われなくなりましたね」

定國は去年初ゴールを決め、これからという時に靭帯損傷の大怪我を負い、長いリハビリ生活を余儀なくされた。「とにかく練習のゲームでも、当たり激しいんですよ」定國が所属するスポルト・コロンビアの練習と、試合を一緒に観戦した際、定國の言葉の真意を実感できた。4-4-2のダブルボランチの布陣が基本のパラグアイサッカーの特徴は、球際の激しさにある。ボールが止まるほど深い芝、所々芝が剥がれ土がむき出しになったピッチの上では、大柄で屈強な選手達の肉弾戦が繰り広げられていた。この環境でプレーするということは、いつ怪我をしてもおかしくない危険と常に隣り合わせなのかもしれない。

しかし、定國はそんなパラグアイの特徴を逆手に取ることに活路を見出しているという。「戦術、チームとしての約束事の意識が徹底されていないので、スペースを見つけることは難しくないです。フィジカルで勝負するのではなく、自信があるスピードを武器にまずはゴールという結果を残していきたい。最終的には、パラグアイ1部でプレーして、欧州の国に移籍するのが今の目標です」と話した。

 

SOCCER PLANET HP
http://www.soccerplanet-jwt.com/ryugaku/
この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

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【コラム】「パラグアイで戦う若者たち」 定國智之・交久瀬直人・山中敦史 Part2

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左から山中・交久瀬・定國
写真:左から山中・交久瀬・定國)

ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイに次ぐ、南米のサッカー古豪国であるパラグアイ。近年では、2010年のFIFAワールドカップ南アフリカ大会で、日本代表初のベスト8進出を阻んだ国として、記憶しているサッカーファンも多いのではないか。しかし、欧州と違い情報収集が難しい南米各国のサッカー情報の中でも、パラグアイのサッカー事情を耳にする機会は少ない。そんなパラグアイ2部リーグで、サッカー留学生として奮闘する3人の若者がいる。熱帯気候の属するパラグアイの中で、比較的過ごしやすい気温が特徴な4月中旬。彼らに会うために「聖母の被昇天」という名前に由来する、首都アスンシオンを訪ねた。

「試合中に自分のサイドが破られて点を取られたら、全部自分の責任となります。当然次の試合に使ってくれません。1対1を重視する考え方で、個人主義の側面が強いです。言い換えれば、サッカーが非常にシンプル。ただシンプルという点に関して言うと、自分には合っているのかもしれません」声の主は、リバー・プレートでレギュラーのサイドバックとしてプレーする交久瀬直人。

現在25歳の交久瀬は、立正大淞南高校で全国大会に出場した後、國學院大学を経て、”自身のサッカー人生を見極める”という意味を込めてパラグアイ留学を選択した。

「大学4年生の途中で、アジアでプレーしてみたいと思うようになりました。日本で選手を続けるより、自分の可能性が広がるのではないかと。結局パラグアイ選んだのは、いくつかあった選択肢の中で1番自分を鍛えられると思ったからです。選手としても、人間としてもハングリーな部分を学べると思った国がパラグアイでした」

パラグアイでのプレー環境に目を向けると、給料未払いも珍しい話ではなく、厳しい側面もある。2部リーグでは、寮ではなく家族で一緒に住んでいる選手が大半を占め、他の仕事を持っている選手もいる。交久瀬曰く、馬や牛や犬が突然練習場に突進してきたこともあるという。ただ、物質的には恵まれているとは言えないパラグアイでの経験は、交久瀬の考え方を変えた。「今までは、日本という国しか知らなかったので。今は、サッカーを通じてパラグアイという国に感じることができたので、帰国後は、いろいろ比較して物事を考えてみたいです。選手としては、技術的にもそうですが、特にメンタルの部分で自分を鍛えることができました。リバー・プレートの会長は、試合だけでなく、毎回練習にも顔を見せるほどサッカーに対する情熱を持っています。なぜパラグアイが南米で、世界でも強豪国の1つとして歴史を刻んできたのかが、少し理解できました気がしています。」

 今年パラグアイでの生活が3年目を迎えた山中敦史は、ヘネラル・カバジェロに所属する21歳。左サイドバックとしてプレーする山中は、180センチ、80キロという体躯を活かして日々屈強なパラグアイ人FWと対峙している。

「元々、サッカー=南米というイメージが強かったんです。パラグアイを選んだのはビザやメンバー登録の状況も踏まえてパラグアイに決めました。今では、その選択が間違ってなかったと思っています。彫りが深いので、時々パラグアイ人に間違えられるのはネックですが。笑」

毎朝4:00頃に起床し、7:00から練習がスタート。10:00頃に自宅に戻り仮眠を取り、自主練習に励んだ後、22:00頃に就寝。パラグアイに来てからの3年間、山中は毎日同じリズムの中でサッカー漬けの日々を過ごしている。求められていることは、サイドバックとしてセンタリングの精度と、1対1の強さと話す山中は、選手としての今後に目標についても話してくれた。

「サッカーが身近なので、試合に出続けること、いいプレーをし続けることで、代理人やスカウト、他のチームから見てもらい易いのがパラグアイの魅力。結果を出して、パラグアイ以外の南米のチームでもプレーしてみたいと思っています。今は、”南米”にこだわってサッカーをしたい。パラグアイに来てから、日本に帰りたいという思ったことはありません。最終的には、リベルタドーレスに出場できるチームでプレーしたいです」

 

SOCCER PLANET HP
http://www.soccerplanet-jwt.com/ryugaku/
この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

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INAC神戸が“勝てない”監督を選んだ理由

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練習中に高瀬選手と話をする前田監督
(写真:練習後に高瀬選手と話をする前田監督

■男子サッカー関係者も驚いた後任人事
常勝軍団のINAC神戸。昨年は、リーグ戦3連覇、カップ戦、皇后杯、モブキャスト杯を制し、史上初の4冠を達成した。
優勝の立役者でもあった石原監督に、INACは留任を要請したが、本人は「次のステップに行きたい」と、アメリカリーグでの指導を希望。勇退という形で、sky Blue FCのコーチに就任した。

驚いたのが、後任人事。女子サッカーの指導は初となる、J2鳥取の前監督だった前田浩二氏に決まった。
女子サッカー界は未経験というだけでなく、前田新監督は成績に関して「いわくつき」でもある。一昨年のアビスパ福岡の監督時代から、昨シーズン途中より監督に就任したガイナーレ鳥取での2年間で、公式戦で一度も勝利していないのだ。J2・JFLの入れ替え戦でもカマタマーレ讃岐に敗戦し、鳥取をJ3に降格させてしまった。采配には疑問視される点が多く、ファンのみならず、主力選手からも不満が噴出してしまうなど、監督としてのキャリアは、決して輝かしいものではない。

■盛り上がりに欠けるなでしこリーグにとって・・・
近年はINACの一強時代が続いたことで、「応援に行かなくても勝てる」というファンが出てきてしまい、観客動員数も年々減少していった。そのことが、なでしこリーグ全体にまで波及し、盛り上がりに欠けてしまうという問題も出てきていた。

そんな中での前田氏の監督就任。ネット上などでは、「リーグ全体のことを考えての、わざとの後任人事か」と、まことしやかにささやかれるほど予想外の人事であった。

加えて、チームからは昨年の主将・川澄、リーグ得点王のゴーベル・ヤネズ(両選手ともに期限付き)、なでしこジャパン不動の右サイドバックの近賀が海外に移籍。大幅な戦力ダウンも心配されていた。

■開幕2連敗。しかし、チーム関係者からは予想外の声

事実、INACはリーグ戦初の開幕2連敗を喫してしまう。

監督自身、不名誉な記録を30に伸ばし、クラブ的にも暗い雰囲気があるのではと思われたのだが、クラブ関係者は意外なことを口にした。
「今年のINACは、雰囲気がとても良い。若手が伸び伸びしている」「ベテラン選手が若手に歩み寄って、より積極的に話しかけるようになった」

その理由の一つが、前田監督にあるというのだ。前田監督はベテランや若手、レギュラー組やサブ組関係なく、選手一人一人に接し、アドバイスをしたり、談笑したりする。実際に、選手たちからも、成績が低迷しているにもかかわらず「選手一人一人をしっかりと見てくれている」と上々の評判だ。

■昨年と今年のINACの大きな違い
昨年までのINACの練習を見たことがある方はご存じであろうが、レギュラー組とサブ組が、はっきりと別れた状態で、終始トレーニングが行われていた。なでしこジャパンに名を連ねる偉大な先輩に、後輩が遠慮している部分も多く見られ、固定されたレギュラー組に対して、サブ組のほうはモチベーションが上げにくいであろう場面もあった。

一方の今年は、クールダウンのランニングを選手全員で一緒に走るなど、今までになかった光景がある。
今年、「ベテランと若手の融合」をINACは掲げているが、その一手を担っているのが、前田監督だ。

前田監督本人も監督としてのモットーは、選手に対する「目配り 気配り 心配り」で、男子の監督時代から心掛けているという。

■監督オファーの理由は・・・
チーム関係者も「並々ならぬ決意をしている」「気配りができる方なので、男子より女子相手のほうが向いているのではないか」と、監督を信頼する理由を明かす。

「若手の育成」がクラブの方針であり、「女子の若手育成に期待ができる」という点が、前田氏への監督就任のオファーに至った理由の一つであったようだ。
 
INACの文会長も、「3敗ぐらいはしてもいい。若手が試合でチャレンジし、経験を積んでくれれば」と、敗戦に対しての猶予をある程度見ている。

チーム関係者も、「このチームは、結成からどんどん良くなっていっている。結果も付いてくる」と、10代の選手がチームの半数を占める「新生INAC」に期待を寄せる。

「今までとは違う強さ」を見せるINAC神戸のカギを握るのは、まぎれもなく、不名誉な記録を止める前田浩二監督だ。

練習を行うINAC神戸

(取材・文:谷口こういち)

 

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「南米文化の伝道師として」近藤 翔太

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選手時代の近藤 翔太さん
写真:選手時代の近藤 翔太さん)

「自分の経験を活かして南米と日本の架け橋になりたいんです」話してくれたのは、立命館アジア太平洋大学に通いながらスペイン語の個人レッスン教室『NARANJA』の代表を務める近藤翔太。近藤は、ウルグアイで1年間プロ選手として過ごし、チリでのプレーも経験している。「日本の南米化ではなく、日本の文化を大切にしながら南米の良いエッセンスを取り入れること」近藤が考える、大分県別府市から発信する南米との架け橋としての活動とは。

-はじめに海外に興味を持ったキッカケを教えて下さい。
近藤 翔太(以下、近藤):中学時代からプレミアリーグに魅了されていました。本当は高校に進学せずに、イングランドに行く予定だったんです。ただ両親の反対や、現地の留学業者に騙されそうになったこともあり、断念しました。その後、大学に通いながらHOYO大分でプレーしていた時、元鹿島アントラーズの増田忠俊選手に海外の話しを聞くうちに、自分の海外に対する羨望を抑えきれなくなっていました。1度考え始めると、そのことで頭がいっぱいになる性格なので。ブラジル人のコーチに海外へ行きたい気持ちを相談し、HOYOのチームメイトにウルグアイでシュアルームが可能な人を紹介してもらいました。当時ウルグアイに関して知っている情報は皆無。本当に何もない状態から、ウルグアイでの生活がスタートしました。

 

-ウルグアイ、チリでプレーしていますが両国の印象は?
近藤:ウルグアイでの1年目はアマチュアだったんですが、2年目にプロ契約を果たすことができました。しかし、公式戦出場は0。ポジションもフォワードからサイドバックにコンバートされて、消化不良の日々でした。
サッカーの印象はフィジカル重視で、プレーがとにかく荒かったです。『チャージが、体全身で当たってくる感じ』でした。

チリではゴールという結果を残せたんですが、ビザの問題や2012年は外国籍(南米圏外)の選手はチリでプレーが不可能となったこともあり、プロ契約を果たせませんでした。
プレーする側としては、ウルグアイのほうが激しく厳しい環境でした。ただチリのほうが、パスサッカーが主軸のスタイルを好み、欧州の基準に合わせているという印象は受けました。

 

-なぜ大学在学中に「NARANJA」を立ち上げようと考えたのですか?
近藤:チリでプロになれなくて傷心していた際、2ヶ月間バックパッカーとしてチリ全土を周りました。今までサッカーしかしてこなかった自分にとって、この経験は考え方を180度変えるキッカケになりました。旅行者として、右も左もわかない自分に無条件にチリの人は良くして下さりました。今でもチリの方々とは、スカイプで連絡をとりあっています。

『NARANJA』は、単なるスペイン語の個人レッスンの場ではなく、言語を学ぶことを通じて国際的に活躍できる人材育成の育成を目指しています。言語がないと、深いコミュニケーションは成立しません。言葉が話せてもその場に応じた使い方を知らないと意味を成さないですし、現地に行かないとわからないことがたくさんあります。そこで、私の経験を少しでもお世話になった別府市に還元する意味でも、語学を通して海外で活躍できる”環境”を提供できればと思い『NARANJA』を立ち上げました。

 

 

【次ページ】南米と日本のエッセンスを融合したチームを作りたい

「10代の日本人が名門グレミオで目指すプロへの道」 福島将太

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写真:グレミオで、プロ選手を目指す福島将太)

ブラジルの名門グレミオで、プロ選手を目指し日々奮闘している10代のフットボーラがいる。現在18歳の福島将太がブラジルに渡ったのは、2年前。中学時代を埼玉県の神威FCで過ごすが、三浦知良に憧れて単身ブラジルへのサッカー留学を選択した。

ブラジルに渡った福島を最初に驚かせたのは、サッカーという球技に対する意識の違いだった。「ブラジル人は練習嫌いと聞いていたんですが、フタを開けてみるとフィジカル練習もガチガチでした。練習も試合に近いカタチを想定していて、常に緊張感がありました。特にユースは”プロ”という環境が身近にあり、サッカーに取り組む姿勢や考え方が全く違うと感じました」

福島はボランチを主戦場にプレーしているが、当時身長が160センチ前半だった福島が身体能力に勝るブラジル人と競り合うには、基礎的な体作りから変革する必要があった。

「まず体幹を鍛えることからスタートしました。こちらに来てから毎日フェイジョアーダ(豆と豚肉を煮込んだブラジルの大衆料理)ばかり食べてるせいか、身長が2年間で10センチ以上伸びました。体も意識もブラジル化してきていますね。笑」

苦悩しながらもブラジルでの生活に歩み寄っていった福島は、ビザの関係もあり公式戦に出場は叶わなかったが、練習試合で出場機会を得ることに成功し、徐々に周囲からの評価もついてきた。一度現地の地域誌に取り上げられたこともあり、少しずつだがブラジルの地で爪あとを残しつつある。

ブラジルのグアラニー、スペインのビジャレアルCFでプレーし、現在アジア・中東地域のスカウトも勤めるMP SPORTS社のエグゼクティブディレクターのルシアーノ・ノロンハは福島の将来性に太鼓判を押す。

「ブラジルはサン・パウロFC、コリンチャンスといったビッククラブのユースでも各世代20人程度しかプロ契約に至らない狭き門です。ただそんな中でも、ブラジル人と比較しても将太は適応力と判断力が素晴らしい。ボランチのポジションで両足を使えるのもグッドです。あと2年頑張れば、プロも見えてくるレベルだと思ってます」

そんなルシアーノの評価に福島も「自分1人なら無理かもしれませんが、ルシアーノと一緒ならプロになれると思っています。選手としての自信が揺らぎそうになった時、プロの先輩としても自分を後押ししてくれる存在です」と話す。

「中学時代は、海外に行けば何かが変わると思っていたんです。自分を変えたいな、と。実際ブラジルに来てみて、主張することの大切さも肌で感じることができました。だから、語学のマスターのための努力もできました。アピールしないと、パスももらえない。そんな環境でプレーできていることは、必ず今後の人生に活きてくると思ってます」力強い握手を交わし別れた後、流暢なポルトガル語を操り、身振り手振りを交えながらブラジル人と議論する福島の姿がしばらく脳裏から離れることはなかった。

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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【特集】ポスト中村俊輔と言われた男 松井修平の現在

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同志社大学MF松井修平
写真:同志社大学MF松井修平)

「将来は海外でプレーしたい。今年ケルンに行った長澤選手のように、チャンスがあれば大学から海外へ行きたい。自分にもできると思っています」昨年、桐光学園から同志社大学に進学したMF松井修平が、インタビュー後につぶやいた。

第91回全国高校サッカー選手権大会・3回戦、佐賀商業対桐光学園の試合を観戦した、桐光学園の卒業生で元日本代表MF中村俊輔が「あの10番いいね」と褒めた。その10番が松井修平であった。『ポスト中村俊輔』と呼ばれた松井に、現在と過去について聞いた。

■本当に目標としている選手は中村憲剛だった

‐川崎フロンターレU‐15での経験
松井修平(以下、松井):基礎練習がかなり多かったおかげで、ボールタッチの柔らかさや、プレーするにあたって大事なことは自然に身につきました。また当時のチームはあまり強いチームじゃなかったので、どういうプレーをすれば勝利につながるのかなど、考えさせてもらえたのは非常にプラスになりました。

 

‐目標としているのは川崎F MF中村憲剛?
松井:ジュニアユースの頃に、トップチームの試合の優待券などをもらう機会がよくあり、その時に中村憲剛選手のプレーを見ることが多く、すぐに憧れました。今でもそうですが、得点につながる決定的なパスなどはすごいと思いますね。その頃から自分もあんなプレーがしたいと思い始めました。

 

‐なぜユースチーム昇格を断って、桐光学園へ進学したのか?
松井:厳しい環境に身を置きたいと思いました。ユースチームからJリーグへという流れが、一番の最短ルートかもしれませんが、当時プリンスリーグで上のリーグにいる桐光学園でサッカーがしたいという思いが大きかったです。

 

‐桐光学園での練習は厳しかった?
松井:夏の合宿での4部練習はかなりきつかったです。朝5時から走って、多い時は午前、午後、夜と3回走るトレーニングをすることがありました。でもそのおかげでフィジカルは強くなりました。桐光学園のサッカーはカウンターサッカーが主体で、攻守の切り替えなどは、あの走るトレーニングで培われていると思います。

 

‐選手権大会での経験は?
松井:選手権はここでサッカーを引退すると決めた選手も多く、サッカー人生をかけて向かってくる選手もいるので、すごく難しい大会でした。でも観客もたくさん入って、良いプレーをすると、かなり盛り上がるので、楽しかったですね。今までのサッカー人生で一番楽しいと感じた時でした。

 

‐選手権大会では『ポスト中村俊輔』と呼ばれていましたが
松井:周りからかなりいじられました。背番号が同じ10番というのもあったので、言われていたんだと思います。でも中村俊輔選手に褒められていたのは嬉しかったです。

 

‐高校選抜としてデュッセルドルフ国際大会に参加した感想は?
松井:考えていることを主張できる選手が多く、そういう部分が長けているから、世代を代表する選手になるんだと感じました。みんな自分の意見をしっかり言えたからチームはまとまりましたし、それが優勝につながったと思います。

 

‐今後の目標は?
松井:まずは同志社大学で、インカレや総理大臣杯に出て優勝につなげたいと思います。技術では良いものがありますが、崩れ始めると一気に崩れるので、チームとしてもっとメンタルの部分が成長しないといけないと思います。
個人としては、関西選抜や全日本大学選抜に入りたいと思います。個人のレベルが上がればチームの成績につながると思います。将来は海外でプレーしたいです。デュッセルドルフでプレーして、より一層海外でやりたいと思えるようになりました。

 

(取材・文:澤田ゆうき)

 

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【特集】「ペルーの文化を日本の子供達に」セルソ・カセレス

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セルソ・カセレスと子どもたち
写真:セルソ・カセレスと子どもたち)

大阪市民の憩いの場である扇町公園では、午後3時頃になると「ウノ・ドス・ウノ・ドス」と無邪気にはしゃぐ子供達の声が聞こえてくる。スペイン語で「美しいプレイ」を意味するフエゴボニートは、2歳~12歳までを対象にしたこどもサッカースクール。スクールを主催するのは、ペルーのクスコ出身の元プロ選手であり紫光サッカークラブ(前京都パープルサンガ)などでプレーしたセルソ・カセレス。カセレスは、19歳で日本に渡ってからボランティアでサッカーの指導者、プロの音楽家、ペルー料理店の経営と3つの側面から、37年間ペルーの文化を日本に根付かせるために活動を続けてきた。「南米の文化が日本で少しでも普及してくれれば」カセレスが伝えてきた、南米と日本の架け橋としての想いを聞いた。

‐元々はサッカー選手として日本に来日されたのですか?

セルソ・カセレス:京都の文化に興味を持ち、留学したのがキッカケです。旅行会社で働きたく、日本語を勉強していました。ペルーでは、15歳でアマチュアとしてサッカーを始め、1部リーグで19歳までプレーしました。ただ、プロでペルーで食べていくのは大変でした。なぜなら南米の子供はみんなサッカー選手に憧れるからです。日本に留学生として来日しましたが、プロ待遇として紫光クラブから声を掛けてもらって。当時は日本のサッカーの技術はお世辞にも高いとは言えないレベルで、南米からのサッカー移民が多数いました。セルジオ越後さんともよく食堂で一緒になりましたね。

 

‐レベルが高くないという話しが出ましたが、当時の日本サッカーの印象は?

セルソ・カセレス:ひたすらボールを蹴る、走る、相手を削るという繰り返しのサッカーという印象でした。南米のサッカーと比較すると、細かい判断のスピード、トラップなどすべてが違いました。今は日本サッカーのレベルは格段に上がっていますが、Jリーグが存在し、海外で活躍する選手が増えたのは、当時日本に来日した南米を中心とした外国の一流選手の功績が大きいと思います。特に藤田工業、読売クラブに所属していた選手のレベルは高かったです。

 

‐現在ボランティアで少年サッカーの指導に当たっていますが、なぜ音楽や料理ではなくサッカーなのですか?

セルソ・カセレス:今はたまたまサッカーということもあります。ただ子供達に何かを伝える際に、サッカーは効果的です。目的は、ペルーの文化を日本に伝えることです。文化というものは、誰かが後世に伝える必要があります。音楽、語学、料理。今私がやっていることは、何かしらの形で日本とペルーの繋ぐ架け橋になっていると思っています。

 

‐息子さんが、南米にサッカー留学を予定されているとのことですが。

セルソ・カセレス:息子はプロサッカー選手を目指しています。ペルーのクラブかボカ・ジュニアーズに留学を予定していますが、自分の実力を見極めるという意味では、いい経験になると思います。息子だけでなく、私が関わっているすべての人が、サッカーや南米という国を通じて、いろいろな考え方を身につけてくれればといいですね。

 

‐日本の子供達を指導する際に気をつけていることは何ですか?

セルソ・カセレス:小さい時から責任を持ってもらうための指導を心掛けています。日本の子供は恵まれています。理由は働かなくていいいから。昔小学校で音楽の教師をしていました。その時の友人と久しぶりに話した際『今は子供が怒られる機会がほとんどない。だからこそ、教育の場で厳しい環境を与える必要を感じている』と言っていました。だから、サッカーを楽しみつつも、時には厳しく接するようにしています。ただ厳しいだけで子供は心を開かいてくれません。だから、練習が終わったあとは、子供と一緒になって子供と同じ目線で遊ぶようにしています。すると子供達との距離は縮まりますね。

 

フエゴ・ボニート ブログ
http://blog.goo.ne.jp/juego-bonito

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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【特集】「南米で10年以上闘ってきた男」 村木 伸二

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(写真:FC大阪で選手兼フィジカルコーチを務める村木伸二)

FC大阪で選手兼フィジカルコーチとして勤めながら、サッカー選手として今年で21年目を迎えた村木伸二。
21年という途方も無く長い選手人生の中には、ブラジルで過ごした1年間、アルゼンチンで過ごした10年間も含まれている。「高校時代も無名でしたし、選手としては至って平凡です」と話す村木は、池田北高校を卒業後、単身ブラジルへ渡る。「ブラジルではジュニオールのカテゴリーで練習していたのですが、正直レベルが違いました。環境やブラジル人のハングリー精神も含めて、こんな世界があるんだ、というのが印象を受けましたね。朝、昼の2部練習だったので、サッカー以外は寝るだけ。ただ、毎日サッカーだけに打ち込めるという充実した日々でした」

ブラジルでのプロ契約が難しいと悟った村木は、帰国後NEC山形(現モンテデイオ山形)に籍を置くが、プロ契約には至らず再度ブラジル行きを決意するが、ビザの関係もありブラジル行きは断念せざる負えなかった。
とにかくサッカーの国へ、そんな思いでアルゼンチンに住んでいた友人に連絡をとり、寝所の確約を取り付けた村木は、同じ南米のサッカー大国へ渡航するため、朝5時からトレーニングに励んだ後、毎日新大阪駅で新幹線の弁当販売のアルバイトをこなす日々が続いた。
半年間で貯蓄した120万円と帰りの航空券だけ握りしめ、村木のアルゼンチンでの挑戦は始まった。

留学斡旋業者にも頼らず、スペイン語も話せない。現地での知り合いも皆無だった村木は、足繁く通った4部チームの練習生として潜り込み、プロ契約を勝ち取りそうになったこともあったが、観光ビザでアルゼンチン入りしていることもネックになり、プロ契約には至らなかった。
チーム探しに奔走した村木は、朝と夕方に分けて1日に数チームのセレクションを受け自身を売り込み、C.A San Telmoで念願のプロ契約を果たす。
その後、10年間1度も日本に帰国することなく、アルゼンチンで選手として過ごし、永住権も取得していている。

「正直環境や金銭面では厳しかったです。月の収入は日本円で4万円程度。1万6千円程度のボロアパートに住んでいましたし、それすらも払えない時は、ホームステイをしたり、日系人の方の家に住ませてもらったりしました。ただ、後悔したことは一度もありません。10年という期間に、アルゼンチンで会った日本人にも驚かれましたが、私の感覚としてはあっという間でした。生活のためのサッカーではなく”サッカーのための生活”だったので。今でもときどきアルゼンチンに”帰りたい”と思う時があるんですよ」

所属するFC大阪では、フィジカルコーチ兼通訳として若手選手の教育・育成にも携わっているが、村木本人はあくまで選手として現役生活をできるだけ長く続けることにこだわりを持っている。
「友人には金持ちになったり、結婚して幸せな日々を過ごしている者もたくさんいます。でも、私は絶対にそんな周囲に流されません。サッカーができる場所がさえあれば、国、カテゴリー、関係なくどこにでも行きます。私にとってはサッカーがすべてなので」

FC大阪に移籍後、公式戦出場は叶っていないが現在もアルバイトを続けながら、若手選手に交じり真摯にトレーニングに励む村木の姿が印象的だった。今年の8月に41度目の誕生日を迎えるが、村木のサッカーに対する情熱は21年間少しも色褪せていない。

 

村木伸二 経歴集:
池田北高校
Londrine.E.C (ブラジル)
C.A San Telmo(アルゼンチン)
Argentino de Merlo(アルゼンチン)
C.A Acassuso(アルゼンチン)
SanMartin de Burzaco(アルゼンチン)
アルテ高崎
デッツォーラ島根EC
FC大阪

 

この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。

(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829

 

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