渡名喜ジェフェルソンは日本人の両親のもと、1983年にサンパウロで生まれた日系2世だ。幼少期をブラジルのストリートサッカーで技を磨き、両親の仕事の都合で8歳で日本に来日する。
「日本に来て始めに驚いたのは、自動販売機の存在でした。ブラジルなら、確実に機会を壊されてお金も中身もすべて盗まれるので。日本は治安のいい国なんだ、と。当時は日本語も話せない状態だったので、小学校では自分の年代より下の学年で日本語を学んだりと、いろいろと大変な部分も多かったです」
埼玉、長野、群馬、神奈川と各地を転々とし、なかなか思うように周囲に馴染めなかった渡名喜の心を癒やしたのはサッカーだった。もともとプロ思考だったこともあり、日本でもサッカーに打ち込み、高校時代には群馬県の強豪常磐高等学校で、インターハイに出場果たす。
高校卒業後は、石川県のLUZ.FCでプロ選手を目指して練習に打ち込むが、生活は厳しく、3時半~9時まで週5日間新聞の販売員として勤務しながら、サッカーに順次する日々だった。そんな生活も1年が過ぎること、渡名喜の中で母国ブラジルに対する思いは募っていった。
「自分の起源はブラジルにあるので、やはり特別な思いがあります。今でも連絡をとる友人も親戚も多いですし。だからこそ、ブラジルでサッカー選手として這い上がってみたい、そう思ってブラジルに”帰り”ました」
ブラジルでテスト生から這い上がった渡名喜は、CA JOSEENSE、GUARANI FCPで2年間プレー右サイドバックとして過ごした後、スペインでも1シーズンプロとしての実績を重ねた。
「ブラジルにしてもスペインにしても、その国、その国でサッカーのルールが明確で、文化を感じました。もちろんチームによって異なりますが、例えばブラジルでは右サイドバックは上がれ、という指導を受けました。ディフェンダーは守ってから、積極的に上がって攻めるのが鉄則でした。スペインではパスを回しが中心で、サイドバックは上がる事が禁じられてました。スペインでは、とにかく技術が高く練習は常に楽しかったです。ただ、激しくプレーするエリアの見極めは徹底されていましたね」
”センスのある選手ではなく、努力を惜しまないガッツのある選手だった”と自身を形容する渡名喜は、スペインから帰国後、J2、JFLのチームからオファーを受ける。納得した部分とできなかった部分があり葛藤するが、両親に相談した際「もうサッカーはいいでしょ」と言われ、今まで苦労をかけてきただけに、ふと肩の荷が降りた感覚を覚えたという。こうして渡名喜は選手としての生活に見切りをつける。