大阪市民の憩いの場である扇町公園では、午後3時頃になると「ウノ・ドス・ウノ・ドス」と無邪気にはしゃぐ子供達の声が聞こえてくる。スペイン語で「美しいプレイ」を意味するフエゴボニートは、2歳~12歳までを対象にしたこどもサッカースクール。スクールを主催するのは、ペルーのクスコ出身の元プロ選手であり紫光サッカークラブ(前京都パープルサンガ)などでプレーしたセルソ・カセレス。カセレスは、19歳で日本に渡ってからボランティアでサッカーの指導者、プロの音楽家、ペルー料理店の経営と3つの側面から、37年間ペルーの文化を日本に根付かせるために活動を続けてきた。「南米の文化が日本で少しでも普及してくれれば」カセレスが伝えてきた、南米と日本の架け橋としての想いを聞いた。
‐元々はサッカー選手として日本に来日されたのですか?
セルソ・カセレス:京都の文化に興味を持ち、留学したのがキッカケです。旅行会社で働きたく、日本語を勉強していました。ペルーでは、15歳でアマチュアとしてサッカーを始め、1部リーグで19歳までプレーしました。ただ、プロでペルーで食べていくのは大変でした。なぜなら南米の子供はみんなサッカー選手に憧れるからです。日本に留学生として来日しましたが、プロ待遇として紫光クラブから声を掛けてもらって。当時は日本のサッカーの技術はお世辞にも高いとは言えないレベルで、南米からのサッカー移民が多数いました。セルジオ越後さんともよく食堂で一緒になりましたね。
‐レベルが高くないという話しが出ましたが、当時の日本サッカーの印象は?
セルソ・カセレス:ひたすらボールを蹴る、走る、相手を削るという繰り返しのサッカーという印象でした。南米のサッカーと比較すると、細かい判断のスピード、トラップなどすべてが違いました。今は日本サッカーのレベルは格段に上がっていますが、Jリーグが存在し、海外で活躍する選手が増えたのは、当時日本に来日した南米を中心とした外国の一流選手の功績が大きいと思います。特に藤田工業、読売クラブに所属していた選手のレベルは高かったです。
‐現在ボランティアで少年サッカーの指導に当たっていますが、なぜ音楽や料理ではなくサッカーなのですか?
セルソ・カセレス:今はたまたまサッカーということもあります。ただ子供達に何かを伝える際に、サッカーは効果的です。目的は、ペルーの文化を日本に伝えることです。文化というものは、誰かが後世に伝える必要があります。音楽、語学、料理。今私がやっていることは、何かしらの形で日本とペルーの繋ぐ架け橋になっていると思っています。
‐息子さんが、南米にサッカー留学を予定されているとのことですが。
セルソ・カセレス:息子はプロサッカー選手を目指しています。ペルーのクラブかボカ・ジュニアーズに留学を予定していますが、自分の実力を見極めるという意味では、いい経験になると思います。息子だけでなく、私が関わっているすべての人が、サッカーや南米という国を通じて、いろいろな考え方を身につけてくれればといいですね。
‐日本の子供達を指導する際に気をつけていることは何ですか?
セルソ・カセレス:小さい時から責任を持ってもらうための指導を心掛けています。日本の子供は恵まれています。理由は働かなくていいいから。昔小学校で音楽の教師をしていました。その時の友人と久しぶりに話した際『今は子供が怒られる機会がほとんどない。だからこそ、教育の場で厳しい環境を与える必要を感じている』と言っていました。だから、サッカーを楽しみつつも、時には厳しく接するようにしています。ただ厳しいだけで子供は心を開かいてくれません。だから、練習が終わったあとは、子供と一緒になって子供と同じ目線で遊ぶようにしています。すると子供達との距離は縮まりますね。
フエゴ・ボニート ブログ
http://blog.goo.ne.jp/juego-bonito
この内容の書き下ろしが「南米と日本をつなぐ者達」(ギャラクシーブックスより6月頃出版予定)に収録されます。
(文・写真 栗田シメイ Twitter:@Simei0829)